さくらのみや日記

さくらと日本と鉄道好きな、野良プログラマのブログ。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


おきてがみ

あけましておめでとうございます

おくればせながら、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。


年始なので色々書いてみますが、昨年末はブログを更新しようと思いながら、仕事で疲れていたり(多忙というわけではなくて精神的にだったり)薬を服用しているせいか、時間になるときちんと眠くなっていたり、難しいことを考える時間というのがあんまり持てなかったような、そんな気がしています。
それとは別に、私的なお話ですが、我が家にも娘が昨年生まれたこともありまして、それの世話も多く、必然としてブログを含めインプット・アウトプットは少なくなってしまうという感じでした。
代わりといってはなんですが、仕事の休憩時間などでつらつらとtumblrの方で、軽いコラムを読む感じで読んで気に入ったらreblogなんてのをやっていますので、もしこちらのブログをチェックいただいているという方がございましたら、tumblr部屋の方は頻繁に読み物を拾ってきてはご紹介しておりますので、そちらもご愛顧いただければと思う次第です。

今年は仕事も家のこともまた一段忙しくなる一年だと思っていますが、こちらの方も時間があれば更新したいところです(でも家のことで一杯なので、あんまり哲学だの政治ネタだの、そういう知に遊ぶ時間がないのですが・・)

どうぞよろしくお願いします。

おきてがみ

山本七平「空気の研究」読了です。

やっと読了。読むこと自体はそんなに難しくない本なのだが、感想を書くとなると途端に難しくなる。
ここでいう空気は「空気を読め」の空気。山本七平の時代よりも「空気」という謎の存在の強さは影響力を増しているのもあり、興味を持って読みました。

内容はそんなに難しくなく、西欧、特に山本氏自身がキリスト教徒でもあったことから、ユダヤ教文化と日本の汎神論を背景とした文化の違いから読み解き、西欧にもそういう「空気」的なものはあることを挙げながら、同時にそれと真正面から対峙し、それの影響力を受けないように徹底して文化を築いてきた。それが科学であり契約社会的な真実を間に受けることを選択したのに対し、日本は臨在的感覚こそを、第一義とするところにある。では臨在的感覚とはなにか・・という形で話は進んでいきます。

話の合間に時代背景を扱った物、本書の中ではイタイイタイ病とカドミウムの関係で、カドミウムそのものはタダの金属なので手で触れても大丈夫という「科学的正論」と、カドミウムと聞くだけで発狂しそうな「空気的存在」。この辺りの対比は今まさに原発の賛成派(含む漸減派)と即時廃止派の図式を現代だと想定して読めば非常に楽しめることと思います。

他に個人的に面白かったことは、若干イデオロギーに関することですが、自由の問題についてですね。
戦後アメリカから輸入された民主主義や自由について山本氏の指摘がするどく「自由なんて物がもし本当の意味で日本に定着していれば、日本人は再び皇室を中心とした家父長制度によるを自らの意志で作り上げるだろう。それを戦前続けていた日本人を自由にしたら、そういうシステムを作るのは自明の理」とまで書いていて、確かにそうだわなーと思い至ったこと。
そして「革新は急進だと保守主義を否定して社会主義や共産主義を進めようとする連中がいるが、その「やり方」はこの国の空気の醸成のシステムを考えると、極めて保守的な手法で主張するしかない」とも指摘しています。

こういう形で、世俗レベルで、政治的な問題のレベルで、宗教的なレベルで、手を変え品を変え「空気」の問題に螺旋状に回転しながら切り込んでいくところは、読みづらくもあり、またダイナミックでもあり、はっと気づかされることもあり。最後に落ち着くところで謎が解けるところも含めて、最初は難しい部分もありますが、楽しんで読むことができました。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
(1983/10)
山本 七平

商品詳細を見る


おきてがみ

「符堅と王猛」のレビュー書きました。

最近時間がとれないな~という言い訳を埋めるべく(正確には書くネタが思いつかない・まとまらない)ので、久しぶりにレビューでも。

五胡十六国時代は中国史が好きな人間でも一度は心惹かれる千々乱れる世界は、日本の戦国時代に近いものを感じるからでしょう。
ですが、日本の戦国時代のように、おらが町の英雄がいれば、それなりに語ることもできましょうが(大阪生まれの僕には三好家とか微妙だなぁ・・・。高槻住まいの身としては高山右近か)中国でしかも五胡とあるように民族入り乱れてとなると、もう何が何やらですね(笑)




中国史上でもっともカオスな時期、晋末から始まる五胡十六国時代(魏晋南北朝時代)の人物を描くという意欲作。
作者の小前亮さんは、田中芳樹さんに勧められて中国史ものを上梓するという気鋭の作家です。

中国史好きでも、正直なところ、五胡十六国時代(最近は五胡という言い方が少数民族への配慮に欠けるということもあって、漢末の黄巾の乱~隋による統一までを魏晋南北朝時代という言い方をすることがあるみたいです)というのは、国ができては滅びで、血生臭さを感じる時代で、歴史を生き物として捉える想像力たくましい人たちにとっては、一度は興味がわく時代だと思います。

ただいかんせん、国ができては滅びできては滅び分裂し、を繰り返すので、国の名前・地域・人物を覚えるだけでも挫折してしまいます。(しかもそれらがどの民族で・・というような感じですので)
日本の戦国時代でも、織田信長が桶狭間で戦っているころ、一方薩摩の島津では、毛利では、東北の南部では・・・みたいなのを年表にするようなものなので、どこから手をつけていいのかわからないというのに陥ります。

その中で傑物といえる人物が本書で主役となる、符堅と王猛という人物。
そのなし得た業績だけを見れば日本の戦国時代で言えば、統一にもっとも近づきながら果たせなかった織田信長に擬することができましょう。

当作品の中では、五胡十六国時代の混沌とした時代の中期。時期でいえば4世紀末で、三国志の時代が終わる晋の天下統一から約100年後の時代になります。

符堅という人物は、漢民族を中華とみる史観からは「蛮族」の一つ・羌族という出身ながら、関中に秦(前秦)という強国を打ちてます。秦の当時の領域は、始皇帝擁する秦の領域に近い、長安の前後を領域とした土地で、符堅即位前は、北東は燕(黄河北部一帯を支配する鮮卑族の国)、南東は東晋(三国末の晋が江南に逃れて打ち立てた漢民族の国)に挟まれて苦戦しますが、徐々に富国強兵を行い、国力をつけていきます。

その際には、符堅は「中国の統一のためには、羌族だ漢民族だ鮮卑族だといった民族のことを考えていけない」という理想を掲げ、王猛という漢民族出身の宰相を得て、力を貯め、まずは朝廷の腐敗が進んだ燕を征服して行きます。
燕は鮮卑族の国なので、漢人の王猛としては付かず離れずの距離を保つことを主張しながらも、理想に邁進する秦王・符堅は鮮卑族といえど自分の意見はいつか理解してもらえると信じ、鮮卑族の有力者で将軍としてもすぐれた慕容垂を重用していく。

その後時代も下り、秦は中国のほぼ大半を掌中に収めます。東は燕の旧領から朝鮮半島の付け根まで、西はシルクロードの入り口に当たる涼州を治め、西南の四川は小さな勢力が小競り合いばかりで秦とまともに戦える勢力は無く、秦に近い民族と東晋に近い民族が入れ替わり立ち替わり争っている状況。

そして、残る大きな勢力として、江南にいる東晋を残すのみとなった時に、ここは漢民族の最後の砦だからうかつに攻めてはならないと主張する王猛と、漢民族といえど自分の民族融和の理想は国が安定すればわかると主張し東晋攻略に向かおうとする符堅。

そんな折、王猛は病を得て世をさり、抑えの効かなくなった符堅による南征が始まり、中国史上でも「赤壁の戦い」に比すべき歴史の大転換期となる「淝水の戦い」と呼ばれる十六国時代の最大の戦いが開始される・・。

話としてはそんなところで終わります。


小説ではどうしても、符堅という人物はとてもとても甘く、腹立たしいくらいの甘さを感じます。
反乱を起こしたものでも赦しては元の職にもどしてやるなど、覇者としてはどうなのか?と疑問もわきますし、始皇帝を支えた宰相李斯を思わせるような、万事法に照らすべしの王猛の方がよっぽどか筋が通っており、この二人が現実では馬があったのかが非常に謎でしょうがないのですが、仮にこの人間関係が本小説におけるフィクションだとしても、現に符堅・王猛のコンビは多くの難しい民族の対立を緩和させながら中国の大半を統一していったことも事実で(符堅死後は慕容垂も含めて鮮卑族も独立をし、五胡十六国後期と言われる戦乱時代が始まるわけで)符堅・王猛ともに、中国統一に王手をかけることができたのは、三国末の曹操を思わせる傑物といえるのは事実ではないかと思います。

この時代を理解するには、年表という骨に対して、小説という血肉を与えたという点で、作者にとっても難しい作品だと感じましたが、時代理解のための最初の楔を打ち込んだという点では、作者の視点に点数を上げるべきではないかと感じました。

おきてがみ

Made in Japan

続きを明日にでも書きますわ~なんて言いながら、1週間ほど経っていますがこんばんわ。

で、前回のお話「技術者に愛国心的なモラルは期待しちゃだめ」ということと、その理由みたいなことを書きました。要するに、技術が生かせればどこでもいいんだ、ということ。

それと同様の裏返しであるひとつのことを考えることできます。

私が無知なだけかもしれませんが・・・最近私が職場で使っているPCが、ヒューレットパッカード製なんですが、機種の名称が思い切り「Made in TOKYO」というもの。

PCに限らずサブカル系の人だと、全世界レベルでも東京といえば聖地秋葉原を抱えるわけで、これはパソコンだからこそ成り立つブランド戦略なのかもしれません。

一時期のSHARP製のテレビが亀山ブランドとして売っていたのを思い出しますね。(そのSHARPも今は大変なことになっていますが)

さて、この「Made in TOKYO」の件で一つ考えたことがあります。

以前、日本橋で(関西在住の私ですから、日本橋と言えば電気屋街のある日本橋ですよ)買い物をしていたら、中国人の団体だかがジョーシン辺りでデジカメを買う交渉をしたのですが、なんでもブランドは日本のブランドでも作られたのがMade in Chinaしかなくて、Made in Japanのはないのか!的なことを話しているのを聞いたことでした。

そりゃぁまぁ中国人の立場から考えたら、わざわざ日本の電気屋街まで来てなんでMade in Chinaを買わないと・・ってところしょうねぇ。なんとなく言わんとすることはわかります。

でもこれを客観的に見ると、日本のメーカーのブランドについてはどれほどのものかわかりませんが(Appleほどの単一ブランドで勝負できるのは、SONYくらいなもんだとは思いますが)どこのメーカー製であれ、「Made in Japan」という風に製造欄に書かれたものは、それがSONY製であれHPであれ、中国だの台湾だのの無名メーカーでも競争力があるのではないか?ということです。

だとしたら、国内でモノづくりどうこうなんて言いながら、人件費安いから海外に、なんて言っているメーカーは自分で自分の首を絞めている・・というよりも、自分たちのメーカーのブランド力を過信しているように感じます。PanasonicにしろSHARPにしろ、日本で生まれたメーカーですが、もうMade in Japanと製品につけることのできる会社ではなくなってしまった。そうなると見向きをされなくなる可能性があります。(下手したら「日本の会社だったの?」にも成りかねません)

一番マヌケなシナリオは、サムソンでもLGでもハイアールでもどこでもいいんですが、日本に製造拠点を作って、実質の「Made in Japan」を海外資本が継承することかも知れませんね。

ただ、ヒューレットパッカードがやってるんだから、どこか真似するところはでてくると思うんですよね。ほんと。

おきてがみ

久しぶりに仕事が一段落したので

今週の頭に入って、やっとこさ一つ仕事が完結しそう。。。というところで、やっとこさぼちぼち自分の時間みたいなものが取れるようになってきました。
しかしながら、次の仕事の日程やアサインなどされていると、少しずつ逆算をして準備しておかないといけないこともあったりします。
加えて私生活も大変(とは言ってもピークの時期は過ぎた感じなので)なのですが、やっとこさ自分のペースを取り戻せるかなぁ。そして、どうにか自分のやりたいことのいくつかにむけて活動開始です。

ところで記事を失念してしまったのですが、tumblrに流れて着た記事の中に興味深いのがありましたので一つ。
なんでも最近のテレビなどの電化製品で中国韓国勢が押しているのは、日本の技術者が指導してきたことが原因の一つで「彼らは売国奴だ」的に呼ばれているということ。

これは開発の現場に携わる人間から言わせれば、どこまでエンジニアをバカにしたらすむのかなぁっていうお話。

これまた別の記事で見かけたのは、とある経営者の言葉で「エンジニアなんてモノさえ作れたらそれ以上なにも望んでいないんですよ」的なことを言ったというもの。

うん。確かにエンジニアという生き物は、ソフトであれハードであれ、システムを構築して完成させた瞬間に得られるアドレナリンというのは、麻薬みたいなもので、確かにあの達成感ってのは、経験者でしかわからないもの。ぶっちゃけたところ、はやぶさの映画をみたい程度で安っぽい共感&感動なんてされてもなぁ・・・という感じで。

確かにエンジニアという生き物は、システムを構築して完璧に近いモノを作ることは金銭で得られるモノ以上の何かがあるというのは確か。これはなので「モノさえ作れたら」云々発言はある意味で真実だと思う。

でもこれは諸刃の剣でもあると思うんですね。つまり「モノさえ作れりゃその会社じゃなくてもいい」し「日本である必要でもない」

今みたいに即戦力が求められて、会社もじっくり腰を据えて何かするでなくすぐ結果だけ求めて、育てようという土壌がないのに、忠誠心だけ求めたり、あげくに「売国奴」なんて笑止でしょうと。

前にどこかで書いたのですが、そういう意味では、エンジニアにモラルを求めるのは無意味だ、というのが僕の主張です。同じことをできるなら給料なり他のことを天秤に掛けてそちらに転ぶことにためらいを感じない。そういう土壌は今のエンジニア、特にIT系には多いと思います。
でも、これ、仕方ないんじゃないかな?ものづくりとか言っても、そのモノを作るのは誰やねん、って話になったときに、やっぱりそこに行き着くんですよね。また明日にでも時間があればぼやきを(笑)

おきてがみ

機械には向かない職業

最近は時間が無い上に書きたいこともないというか、書こう書こうと思っても、メモを忘れていたりとか、メモを取っててももう1ヶ月以上も昔だとか、まぁ時間がないのを言い訳に色々サボってたりしますね。

いや、純粋に仕事が忙しいというか、久しぶりに商品としてエンドユーザーに流れる、いわゆるBtoC商品のファームウェアの開発なんてをやってますが(それまでは割合社内ツール作りだったりってことも多かったので、コンシューマに載るブツを作ったのは久しぶり)まぁ胃が痛くなること。

コンシューマを想定した場合だとマニュアルに載っているレベルではなくて、そんな奴はおらんやろ~的なことまでテストだったり確認をするので、実際に作られるプログラムに対して、バグなどの発生率に対する(言い換えれば品質に関する)要求はメチャクチャ高いものがあります。

もっともだからと言って泣き言なんてのは、一介のプログラマがぐちぐち言ってもしょうがないですが(実際に自分の商品に対しての知識不足から来るバグってのもありますし)この辺りの、特に組み込み系開発ってのは難しさがありますが面白さでもありますね。

マジな話をしてしまった。

今後プログラマってのはどうなっていくのかわかりませんが、メンテナンス専門SEとでもいう人達は現れそうな気はしますね。

黎明期にガシガシすげぇ人達がコーディングしてくみ上げたものをメンテナンスする。

メンテナンスって言っても単に配管が壊れたら交換するだけ、ってレベルじゃなくて、情報系のシステムはシステムという完成形であると同時に、時代の要請によって変化をしなければいけない、絶対にゴールというものがないという性質があります。

うん、このメンテナンスができるというのができれば、山のように書かれたC言語とJava言語の世界でも生きていけるかな?と気楽なことも考えたりしますが、やっぱり、エンジニアの仕事は、事務作業を機械化に推し進める一方で、生身の人間の仕事の何割かを奪っているような気がしてなりません。

でも、でも思うのは、やっぱり最後に回帰するのは「アナログの世界」なんですよね。

僕はデジカメの開発を担当している某氏と話をした時に、露出も絞りもシャッター速度も顔認識も笑顔のタイミングでシャッターを決めることができても、構図だけは人間じゃないとできない、と言っておりました。つまり、カメラマンという職業が腕を発揮できる根本のところは絶対に残るわけですよね。

自分の仕事に限らず、どんな仕事でもそういう人間ではなければできないところってあると思うのですが、その分、本当に女衒みたいにモノを右から左に受け流すだけのことをやっている人は、本当に辛い時代になるのかも知れませんね。

おきてがみ

「平家の群像」読書感想文

「平家物語」と言っても主な登場人物って言っても数えるほどしかほとんど思い出せず、清盛は悪いやっちゃ、てな感じしかわからないのが多くで、詳しい人な ら、常磐御前という別嬪さんがおったとか、義経の鵯越の話だとか、那須与一の扇落としとか、そういった断片的な知識でつなぎ合わせ、最期は壇ノ浦で終わ り、というのが多くの人の印象だと思います(私の知識もそんなもんです)

そういう物語上の平氏の一族の群像を解体し、当時の貴族が書いた他の資料などを元に再構成し、史実としての平氏、物語に描かれた平氏の姿を浮かび上がらせるというのが本書の位置づけと思われます。

本書で主役となるのは、清盛ではなく、その次世代を背負った若い公達たち。長子重盛、三男宗盛、四男知盛と、重盛の長子維盛と言った、栄枯盛衰を両方経験 した世代にスポットをあてて解説を行います。(清盛に関しては栄華を極めて凋落寸前で病死してしまうので、ある意味、幸せな人という解釈もできなくもな い)

本書では特に、清盛からみて直系の孫にあたる維盛と、五男重衝という二人の過小評価されている人物を取り上げています。

これはこういう王朝交代ものではあることですが、勝者である源氏に都合よく書かれている部分もあり、史実と実際とはかなりゆがめられた人物像というのが描かれますが、そういうところを丁寧に描いています。

「平家物語」の中では、ある意味お約束として「清盛=横暴な棟梁」「重盛=親父を諫める善人」として描かれるシーンがあります。頼朝・義経の対比と近いも のがあるかも知れません。(重盛という人は心配りの出来る人であった反面陰湿な人だったというのが記録に残っております)

平家物語がまとめられたであろう後世の感覚からは「重盛という常識人のいうことを聞かない清盛」を描き、その重盛が清盛よりも先に亡くなってしまうことで「人徳者であった重盛を失ったことで平家に陰りが見えた」というストーリーを作ろうとする。

「平家物語」の編者(特に誰と決まっているわけではないのだが)が取った善悪を強調することによって「もののあはれ」を表現するその手法に、筆者は賛否両論を交えつつ評価を下しています。

まさしく判官贔屓という言葉は義経のみならず、平家の中でも比較的報われない人、夭折した人に善玉としての役割を与えたりする場面もありながら、筆者はそ れを批判するわけではなく、物語としてそういう形を取ることで、平家の「諸行無常」を表現している、そこに対しては、歴史家ではなく、一文学者としての評 価も下しているところは、ただの歴史家ではできない芸当と言えるでしょう。

まだまだこの分野ではわからないことも多く、他の平家の公達や、御家人郎党レベルになると謎だらけです。まだまだ読み解く材料はありそうです。

余談ながら、平家物語の時代というのは、それより先に生まれた「源氏物語」が描く王朝絵巻というのがかなり影響しているというのがわかります。維盛が「光 源氏の再来」と言われたりするのも、源氏物語がその時代の文化人の教養として根付いていたからこそ成り立つ比喩ですから。



おきてがみ

アンチキリスト読み。で、いつ終わるんだか・・・。

足が痛いので、仕事を定時で切り上げて接骨院にいったら、いきなり痛み止めの筋肉注射を打たれたでござる。

注射が一番痛いよ!

てな感じでしたが明日までに少しでも治っていたらいいなぁ。

最近はニーチェの「アンチキリスト」読み。元々他の著作に関しても、何と戦ってるんすか?状態のニーチェ先生ですが、アンチキリストに関しては、批判対象がキリスト教とそれにまつわるモノと限定的になんているだけに、舌鋒はするどいというか、ビシビシ笑いながら読める。それは自分がキリスト教とあんまり無縁の生活をおくっている他人事だからなんだろうなぁ。

「生命が誕生したり死んでいったり、人間にとって普通の当たり前のことを、わざわざ神聖なものと祭り上げ、権威付けに利用している」

なんてのを読むと、人間にとって死は必然で輪廻転生の通過点の一部と規定する仏教の考え方の方が、まだすっきりすると、ニーチェは仏教的な考え方の方を好んでいた感じはするんですよね~。

そして色々書こうと思っていたことを忘れていたり。まだまだ、自分の頭の中では熟成段階にあるような気がしますね。

おきてがみ

吉川英治を昔読んだ思い出

吉川英治の「私本・太平記」を大人買い。全8巻ですがamazonで1円だったので全部で8円でした。

送料の方が高いw

そして何故コレを買ったのか自分でもイマイチわからないw

吉川英治作品に最初に出会ったのは「三国志」。小学生だった僕が児童文学向けに書かれたそれを読んでいたのを、近所のおじさんが「これに挑戦してみぃ!」とよこしてきたのが吉川三国志でした。

今の吉川英治作品は文庫になっていますが、当時は函入りというので、分厚いのが全三巻、おそるおそる読んだのを覚えて居ます。

正直三国志は今みたいに資料がない時代に読んだので、あまりの登場人物の多さに「誰やねん」状態が続くのですが、劉備・関羽・張飛の三人を中心に、そして諸葛孔明を加えた、少し古いながらも、蜀を正統とする日本人の三国志感を最初に植え付けた傑作となっていることは言うまでもありません。(少々時代背景的なことを言えば、吉川三国志が書かれたのは戦中なことも踏まえ、皇統の正当性と言った観点から非常に敏感な問題であった可能性もあると思われる)おそらく日本人の三国志は、吉川英治が作ったと言ってもいいと思います。

閑話休題

で、吉川作品は実はこの時に大好きになりました。50年前の大衆作家なんですが、文章が非常に読みやすいことに加え、読みやすいながらに非常に高尚な文章を書くことができる作家で、この絶妙のバランス感覚にしびれてしまい「こんな綺麗な日本語で大衆小説が書ける人がいるのか!」と小学生の頃に感動した記憶があります。

以後は、私の両親の実家が、剣豪・宮本武蔵の生家が近くにあることもあり、吉川版武蔵も読みましたし、三国志の流れで新・水滸伝や、オリジナルの鳴門秘帖なども読んだ記憶があります。

さて、その吉川作品ですが、高尚という表現よりも、僕自身として「実に艶のある文章を書く」という印象があります。特に女性の描写が美しい。

三国志の中では、作品の早めに登場する印象的な芙蓉姫、そして、三国志一の傾国・蛁蝉と、今のようなビジュアルで訴える資料の無い時代には、想像をたくましくするには十分なものがあります。新・水滸伝に出てくる女将軍、一丈青・扈三娘の登場シーンなんてのは

「涼霄の花も恥ずらん色なまめかしい粧いだった。髪匂やかに、黄金の兜巾簪でくくり締め、鬢には一対の翡翠の蝉を止めている。踏まえた宝鐙には、珠をちらし、着たるは紅紗の袍で、下に白銀の鎖かたびらを重ね、縫の帯、そしてその繊手は、馬上、右と左とに抜き払った日月の双刀を持っているのであった」
(吉川英治「新・水滸傳」より)

なんて文章が新聞連載小説ですらすらと書ける文筆家なんて羨ましくてしょうがないです。余談ながら、一丈青はこの後、梁山泊の林冲に生け捕りにされるシーンがありますが、ちょっとだけエロい雰囲気があったりしますw

で、吉川作品で僕が特別印象深いのは、別に今年だから取り上げるわけではないので、新・平家物語です。

新・平家物語はちょっと変わった作風で、清盛や義経が主役というよりは、京都の町に住む庶民達が合間合間に世情を語るようなシーンもあって、少し変わった印象があります。この作品は中学の図書委員をやっている時に、図書館の奥で見つけて読んでいたのですが「清盛が常磐御前をレイープするシーン」というのを見つけてしまい、当時厨房の僕は大興奮しながら読んだ記憶があります(笑)

平家物語で一番泣けるのは、鬼界が島のシーンですね。アレは吉川版の文章で是非読んで欲しい。マジおすすめ。

おきてがみ

引っ越すのです。

思うところあって、ブログの引っ越しをいたします。

FC2では特に不満もないけれど、良いこともなくw
seesaa時代が一番面白かったかもなぁ~(笑)

少し多忙なので、再見。


おきてがみ

«  | HOME |  »

竹島プロジェクト


提供:natsuka.net様


twitter




プロフィール


佐倉純

Author:佐倉純
日本と桜の花と寝台特急「さくら」をこよなく愛する、そして最近カメラに目覚めたのんきなエンジニア。
日本の事を憂いてみたり、日々思ったことをまとめて、綴ったりしています。その合間に写真も撮っています。
ぜひゆっくりご覧ください。
メールはこちらからどうぞ。


ブロとも申請フォーム


この人とブロともになる


最近の記事



コメントとプラグイン



カレンダー(月別)


12 ≪│2017/03│≫ 01
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -


カテゴリー



ランキング



リンク



ブログパーツ





あわせて読みたいブログパーツ


ブログ検索



マイサーチ


自分のマイサーチ 全体


RSSフィード



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。