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さくらのみや日記

さくらと日本と鉄道好きな、野良プログラマのブログ。

表現の不自由展

なんか、語ったら負けみたいになってしまいました。「表現の不自由展」騒動。
色々語られているのを、聞くと、相変わらずな「俺が天に唾するを許すとも、天が俺に唾するを許さじ」って感じですね。

なんか、いろいろ吹き上がっているけれど、語る気にならんなぁ。。。もう。あまりにレベル低くて。


はじめて学ぶ 中国思想 読みました

毎日5行でもいいので、なにか書こうと思っているんです。継続してみるのが大切かなぁと思いまして。
ネタがないときは苦労もするでしょうけど(苦笑)

で、今日は書評など



正直、タイトルに「はじめて学ぶ」なんて書いてあるんですけれど、初めて学ぶにしてはガチすぎませんか、これ(笑)
それとも、私の中国の思想史の知識なんて、初めて学ぶ以下だったということなんでしょう。

思想史と考えると、正直なところめちゃくちゃお得な本だと思います。割合、西洋の思想書、哲学書の類ですと、ソクラテス・プラトン辺りから始まって、転換期となるデカルト、そしてカント辺りから始まる近代哲学と、一貫して読む書物は結構出回っていると思います。
一方で、中国の思想史となると、たしかに単発ものだと多いんですよ。論語辺りから始まって老荘・諸子百家の時代、それから宋代になっての朱子学・陽明学と。
でも、それを一貫して学ぶとなると、なかなか難しかったりしますね。
例えば、朱子学が論語(儒学)からどう影響を受けて後継者として成り立っているのか、陽明学の位置付けは?とか。
そもそも論語が現れる春秋時代から、朱子学の宋代まで、1000年ほどの時間差がありますが、その間の中国の思想史ってどうなってんの?という問題があります。

論語や老荘といった、一つ一つの書籍を縦糸とするなら、これはまさに横糸に存在する書籍。これ一冊でもちろん中国思想史を全部語るのは難しいですが、手引書としては、かなりお得と言えます。
正直、初めて学ぶ、と言いながら、かなりマニアックです。章立てされている人名でも、初見の人も多いですし、その合間にコラムとして紹介される人も、殆どと言ってもいいくらいわかりません(泣)

そういう人物の奥深さは別にして、中国の思想史の面白さみたいなのは、自分が読んだ感想としては、意外なところにありました。
それは、漢字の表現の奥深さです。
西洋の思想や、もっといえば特にキリスト教などでも、例えば聖書の一節をどう解釈するか?というので、時代時代で都合よく解釈したりすることがありますが、表意文字である漢字文化の中国では、それが顕著にみられる気がします。

たとえば、中国史のなかで「理」というのをどう解釈するか、というのは、一つのテーマになっているのですが(自分の中途半端な解釈で申し訳ないですが、理と気は別にわかているとするのが朱子学で、んなわけないやろ、と言ってるのが陽明学、というような)こういうのが随所に出てくるんですね。
まぁ、だから「白馬非馬」の公孫龍みたいなが出てきたりもするのですが、こういう、ある意味、漢字をその場面、時代に応じて解釈を変えることによって、その時代のトレンドを作るというのは、良くも悪くも頭いいなぁという印象もしました。

いや、これ、日本人も時々やりますよね。「自衛隊は隊だから、軍じゃない」みたいな(ちょっとこれは無理がありますな)

あとびっくりなのは、中国の思想史って、結構古くから、特に西洋とくらべて、早い時期からメタ学問、形而上学に取り組んでいるんですよね(なんとなくですが、老荘ってそんな印象ですよね。上善如水だとか、<道>の考え方だとか)

ほんと、自分の全然知らない歴史が身近な国にあって、特に朱子学・陽明学は、日本の武家社会・明治維新にも影響を残していたりもしますので、立ち読みでもいいので、とてもおすすめの一冊です。


うつにまつわるエトセトラ ?回目

昔はそういうタイトルで、一体うつ病とはなにか?というようなことを書いていた気がします。

ただ、それはそれで自分の中で色々考えたり、見直したりする契機になって、ためになった部分もあるのですが。。。
最近はそういうことをあんまり考えないようにすることが多くなりました。

自分の記憶の上書きをするわけではないのですが、かといって、避けようとするわけでもなく。
今までも頭の中で、何度も「この病気は無理に治そうと思わず、一生付き合いかな」くらいに感じていたのですが、そこは頭の中でそうは思っていても、身体がそうは思っていなかった、ということなのかもしれません。
それが最近はやっと心身で一致してきたのでしょうか。

結局の所、今まで色々回り道をしていたような、そんな気もするのですが、その遠回りは、それはそれで人生の中で、意味があることだったのかなぁ・・と思うのですが、それにしては、失ったものがたくさんあるような、そんな気がします。特に仕事関係。これが辛い(苦笑)


思うだけなら罪にはならぬ

京アニの事件とか、見ていると大変ですね。
自分はさほどアニメには思い入れはないのですが、それでも、この事故が例えば鉄道の資料館だったりとか、そういうのを想像すると、悲痛にくれる人たちが多いのは、理解できます。
twitterのタイムラインを見ても、多くの人がそのことについて触れていて、自分としては若干食傷気味なところがあるのですが。

ところで、面倒なことに、3年前に発生した相模原事件を引き合いに奇妙なことを言いだす人がいてまして。

・京アニの被害で遺憾だの言って奴は、相模原事件でも同じような対応してたのか?

というような趣旨だったと思います。
それについての反論もみかけて

・自分にとって思い入れの深さが違う。等価ではない。

というもの。

うーん、そりゃぁ同じ人が一人亡くなったとしても、その人の付き合いによって、個人が受ける価値は違うでしょう。
だったら同じ切り返しで、日頃、障害者に接しているボランティアで、アニメに全く興味のない人からすると、京アニの事件なんて、大した事件ではない、という意見を表明したとしたら、先の反論をした人たちはどう答えるのか。

明確にこれはだめかなぁ、と思ったのは

・京アニの人たちはたくさん優れた作品を後世にのこした。相模原の人たちはそんな社会貢献してたのか?

というものですが、これは論外でしょう。

正直なところ、確かに33人(今の治療中の方もいて、増えるかも)という貴重な働き手が亡くなったというのは確かです。
そして、その人達と自分との距離で、悲しみの感じ方が違うというのも、事実でしょう。人間の心なんてそういうものなんですから。

でも自分たちの思い入れが強いあまりに、そういう生産性であったり、業績で人の価値の重さを測るのは、明らかに危険な兆候じゃないかな。

自分にとってとても大事な人がいて被害にあってしまった。その一点だけ主張すればいいのに(障害者に比べて社会貢献度が違うから、辛さが違う)なんてのは、腹に思っていても、口に出すべきじゃない。思うだけなら罪にはならない、典型だと感じました。


昔のリンクの見直しとかしていたら

昔昔はseesaaのブログを使って「桜日和」というブログをやっていたのですが(時々自分の佐倉純の名前と「桜日和」の名前は見かけますし、しばらくFC2に移ってからも、ひらがなの「さくら日和」だったりしたものですが)
跡地に誰か知らんやつが名前使って変なブログやってた(笑)

一体どういうアレでやってるのか知らんけど、わたしみたいなのをパクるとしたらしょぼすぎるし、そこら中で背取りみたいなことしてるのかな。何が楽しいんでしょうね。ああいうのって。しかも4年前で更新止まってるし。頑張れよ偽物。



twitter疲れ・・というわけではないですが

最近はこちらは放置しっぱなし・・とは言っても、何も活動をしていないわけではなく。
どちらかといえば長いことtwitterで遊んでいた感じですね。

ただ最近はどんどんタイムラインが先鋭化しているのか、自分の中でも、ここから得られることってのはだんだん少なくなってきてるんじゃねぇかな?ってのと、自分にとっては、140字での書き込みというのは、すごく制約が多いというか、物事を正しく伝えようとすればするほど、やりづらくなっていく、という窮屈さを感じることが多いですね。その点はブログの方が好き勝手かけると言いますか。
ヴィトゲンシュタインではありませんが、自分にとっては文章の長さは、思索の深さに比例するようで、だんだん自分が脊髄反射の沼にハマっていくような、そんな怖さみたいなものも感じました。
同じようなことはmixiで日記を書いていたころも感じていたこともあるんですが、あちらは狭い世界だったから、という事情もありました。

それはともかく、twitterについては、情報を仕入れるもととして使うのはありかな?と思うのですが、自分にとっては、発信する媒体としては向いていないかなぁ。
まだそれなら、tumblrの方が、自分にとってはとても居心地が良かったりします。


そろそろ、書き始めようか

長いことブログを放置していてすみません。

病気に真摯に向き合ってみたり、色々本を読んだり、
なんだかインプットに時間を多く費やされました。

別段ブログを再起動するからと言って、昔みたいに政治ネタをやろうという気もあんまりないのですが
(と言いながら、多分書いているんでしょうけども)

昔から読んでくださっている人が、ほぼほぼいない状態での、再始動、ゆっくり書き始めます。


まだ、もう少し

文章をたくさん書くには、まだ、自分の感覚では「器が満たされていない」感じ。
書きたくなると、多分堰を切ったようにでてくるんですよ。
(twitterでダダ漏れという可能性もあるが(笑))

政治ネタは極力封印して、自分の思索の行方を書きたい。
そう思っているんですが、なかなか書くことが出てくるまで、待ち状態ですね・・・。

ただ、今は仕事の合間なんかに読書するのが楽しくなってきたので、健康という点では回復しとるようです。


読書は自分のバロメータ

5月の中頃、いろいろ仕事があってほとんど廃人みたくなってました。

そこから2ヶ月ほど、ぼーっとしながら、自分の興味の話題のあるものから復活、というかんじです。
(その間には、自宅も揺れた高槻の自身があり、親戚が家が水びたりになってしまった倉敷の洪水があり・・)

最初はPCのゲームから。
次第に読書に。
最近になんて、新書やソフトカバーの本を読み切れるくらいになったので、
復活の足がかりはできたのかなぁと思っております。

と入っても、いろんな人と約束している瑞鶴の模型が、まだ進捗進んでません!状態で恐縮です。
(もちろん他の模型の青大将とかも)
これらは涼しくなってからかな・・・。暑くて集中力が続かねぇ・・というか。


休んでいる間は、與那覇潤氏の「知性は死なない」という本を読みました。

本屋でたまたまぶらぶらしていて、立ち読みで興味をもって開いたもので、風変わりな一品という感じでした。
機会があれば、感想を書いてみたいです。

そして、頭が動き出すと、いろいろ本を読みたくなって、最近はショーペンハウアー、ハンナ・アーレントとこのへんをじっくり読みたいなぁと思ってます。まだニーチェの残りもあるんですが・・・。


ともかく、読書はそれが勉強の全てではないけれど、まずは最初の頭のエンジンを回すには、読書から始めないといけないですね。またいろいろまとまったことが出てきたら、ここにも書きますね。


仕事のこと

今は難しいことを考えず。
行けば良し。行ったら粛々と。

新しい仕事に行くに当たって色々考えることもあるのですが
「不安は、ある。けれど、解消方法を考える」
「悩みは、今後生まれるだろう。でも相談する人を作れ」
「今受けた仕事の迷いは持っては行けない」

この3点で、乗り切っております。

機会があったら、自省録のことでも書こう。マルクス・アウレリウスの自省録。面白すぎ。


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提供:natsuka.net様


プロフィール


佐倉純

Author:佐倉純
日本と桜の花と寝台特急「さくら」をこよなく愛する、そして最近カメラに目覚めたのんきなプログラマ。
日本の事を憂いてみたり、日々思ったことをまとめて、綴ったりしています。その合間に写真も撮っています。
時々子供のネタなんかも。

ぜひゆっくりご覧ください。


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