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さくらのみや日記

さくらと日本と鉄道好きな、野良プログラマのブログ。

うつにまつわるエトセトラ番外編 ~うつと「岡田斗司夫ひとり夜話」~ その2

僕にとっての2回目の「ひとり夜話」は、vol.3、11/23大阪の話でした。

ここではイベントの内容をまとめ、それをブログに載せる、という条件で、岡田さんからレジュメを配布してもらう形式で、頭がいいとはどういうことか?の話、話術の話、恋愛の話、人生の話について、少し重いテーマで話をされていた。
これらの内容と感想らしきものについては、自分の過去のブログで書いていますので、リンクだけをして割愛します。

この話の中で思いついたのは、主題と関係のないところで述べられた「打席に多く立つ打者は、打率が下がる」ということ。(もしかしたら、これはだっしーさんが、その直前に参加した奈良での講演の話で出された話題だったかも?)

うつという病気の特徴の一つが、他人への表現が不得手、コミュニケーションを図るのが不得手、という特徴があるとするならば、それは「打席に多く立っていないから」だと思うんですよね。

よく言われる「0か100か思考」とか「白黒思考」とかも「打席に立つ以上ホームランでないといけない」という言葉で置き換えが効くような気がします。話やコミュニケーションがうまい人は、最初からうまい訳じゃなくて、それだけ打席にも立っているし、凡打もしているということですよね。

そのフレームを拡大していくと、それは仕事にも言えることです。
仕事も、ミスを恐れているよりも打席に立つその勇気を賞賛し、失敗を恐れて打席に立たない怯懦こそを恐れ、批判されるべき、だと思うのですが、どうしても仕事をやる以上は上手くやろうなんて、賢しげなことを考えてしまう。
結局「やらない完璧主義」になってしまうことが多いというのが、この時のやりとりで気づいたこととしては大きかった話のように思います。

翻って病気の話に置き換えますが、復職センターでいろいろな取り組みをやるときのスタンスは「小さな成功を元に自信を回復」「ミスをしても、その中で得るものがあれば、成功と考える」というのが基本スタンスです。この考えもまた「打席に多く立つ者は~」に共通しますよね。凡打の中にでも得るもの、次回の材料となるものがあれば、それは成功と考えると、凡打も無意味だったりミスとは言えなくなります。
いわゆるミスと呼ばれるものは、課題抽出作業になるんですね。

ついで手元にあるメモの中から掘り起こした話では「完全に言語化して伝えることを諦める」というのがあります。どういう流れでの言葉かちょっと失念しましたが、自分の解釈では「理屈で100%自分の思いが完全に伝わるなんてことはあり得ない」というくらいに解釈しておいた方が、言葉を使う上では、気分的には楽になりますね。
うつの際のコミュニケーションに関する講習でも「自分の言ったことが良い意味で解釈されるか、悪い意味で解釈されるかは五分五分だ」という話があり、実際、ある種の諦観を持ってそう考えると、自分の物の言い方が素直になってきます。誤解をされた時に「なんでわかってくれないんだ!」と憤るよりも「ああ、そういう解釈もアリか」というスタンスだと、ストレスも軽減されるんですよ。

「こう伝えたい!」と的の真ん中を射貫こうとすると難しいですが「だいたいこんなもんやろ」というラフさ、漫画で言うと「アタリつける」という感覚を持つと楽になる(これと同じ話は2010年4/10のオタキングexのイベントの中に出てきた)。こういう、いい意味でのいい加減さというのは、取り入れたいと思ったことの一つです。

3回目は12/19のvol.4。主にノート術の話でした。

ノートに関しては、ノート術というほどすごいことはしていませんでしたが、日頃のことをノートに書くという習慣はそれまでもありました。うつ病になってから、いろいろな取り組みの延長で日記を書く習慣をつけたというのもありますが、日頃のことをノートに書こうと思ったのは別の理由です。元々の由来は、だっしーさんと二人で雑談をしているときに、話が発散することもあって、一人で考えていたのでは絶対に出てこないアイデアやいろいろなネタがポンポンと出てくるので、そのまま消えてしまうのはもったいない、ならば、いっそ雑談をするときにはICレコーダーで記録し、テキスト起こしをすると、ブログネタになるようなことが出てくるのではないか?というものでした。

で、それを自分一人にいる時に当てはめてみると、僕の場合は一人で電車で移動しているときや、空き時間にぼんやりと、体系だった思考ではないですが「何か小さいことを思いつく」ということがあるので、その「思いつき」が一時でそのまま消えてしまうのはもったいない!と思い、いつでもどこでも書けるように、手帳やロディアのメモ帳などを持ち歩いてメモを取る癖をつけてました。

岡田さんのノート術は、肝心の部分は左ページ(面白部分)にありますね。理屈民族の人たちは、右ページ(論理ページ)を埋めるのはそんなに難しくないはずです。僕の場合は、普段からちょっと物を考える、ということをやっていたので、2ヶ月後には巡航状態には移行していました(ちなみに今の僕は、スケジュール・日記は「ほぼ日手帳」、アイデア母艦はキャンパスノート、メモや思いつきは新書サイズのMDノート(+ロディア)と、3つに分ける美崎栄一郎方式ですが、アイデア母艦ノートは、岡田スタイルを使ってます)。特に左ページを充実させることを目的としないと、このノート術の最終目的は達成されません。痛感します。

僕は絵は下手ですが、左ページ(面白ページ)には、頑張って絵を描いたり、時には小説のプロットを書いたり、単においしかった料理の話を書いたり、中二病な台詞を書いて悦に入ったりしている程度ですが、実際はそんな感じではないでしょうか?

「ニーチェは中二病」「ニーチェは哲学界の島本和彦」とかこの頃発言していたのも、こういう発想の延長ではないかと思います。
(延原訳のシャーロック・ホームズも島本和彦っぽいですけどw)

このノート術は、目的が「面白くなるためにやる」というモチベーション向上にわかりやすい目的をあげていたことが、取り組みやすかったことにあります。

ここで「面白い」というキーワードが出てくるんですが、これもまた大事ですね。たとえば、生きていく上で「面白いこと」ってのは大事だと思うんですよ。
ビジネス啓蒙書や自己啓発書の類は、この視点が抜けている気がする。ノート術の話にしても、最近はビジネス書で話題になったりするんですが「効率を上げる」ということには躍起になっているんだけど、それをやってどう得なの?そもそも楽しいの?と思ったりするんです。手段が目的化している例ですよね。

仕事関係でうつになる人というのは、どうも仕事に依存しすぎている気がします。まぁ確かに仕事は生きていく上で重要な要素ですけれど、仕事は人生の中で絶対や、まして全てではない。仕事が辛いから人生辛いという考えに陥りがちです。これは僕自身もそうです。でも、人生の最大幸福のための十分条件は「面白いこと」ではないのか?仕事だけで全ての人生の印象が決まるような状態が果たして幸福なんだろうか?

そんな大きなことを考えていてもしょうがないのですが、それでも、自分の哲学的な思索癖がこんな形で出てきたというか、どうしても考えてしまわざるを得ない。

そんな状態の中で、一つ、仕事について考えたことがって、それは「仕事に戻った時に、仕事が面白いと思えることをやろう」ということ。面白いと言っても、仕事の業務の中でやることなんで、制約もあるしそんなに大したことはできません。けど、発想次第で面白くすることはできるはず。仕事への取り組み方、メンバーとのやりとりの仕方などなど、面白くできそうな要素はあると思うので、他人は脇において、まずは自分が面白く、ついで、他人を共感して取り込む。そのプロセスを実践する、というのを復職の時の目標に据えました。

逆に言えば、それで駄目だったら、仕事そのものを辞めて、上で考えたような自分の「世の中楽しんだ者が勝ち」理念を受け入れてくれそうな職場を探せばいいし、職場じゃなくても今行っている復職センターでも、それに近いことをやればいいや、と思いました。うつ病だからって、別に暗くする必要なんて、正直ないやないの?と思ったんです。

第3部は明日の予定です~。


うつにまつわるエトセトラ番外編 ~うつと「岡田斗司夫ひとり夜話」~ その1

時折ブログで「うつにまつわるエトセトラ」という形で、自分のうつとその復調・変調および、その際に思ったことを書いています。

本来、他の人のうつ闘病記ブログなどを見ると、毎日の自分の調子や思ったことを書き綴っていくというのがいいのかもしれない。が、自分の場合は復職センターに行って本を読んで、ついでにtumblrまで手を出していると、そこまで行くまでに一日が終わってしまうという感じで、ぶっちゃけまとまった文章を書くのが面倒くせぇ、という感じになってしまってまして(笑)

そんなこんなで、長いこと書こうと思いながらまとまっていなかった、自分のうつと「岡田斗司夫ひとり夜話」の話をまとめておこうと思います。自分の病状と、ひとり夜話の話を平行して書いていこうと思います。もうすぐ復職の準備で忙しくなることですし。

その当時の自分の病状は、週に4日、復職センターに行くのがやっと、という感じで、仮に出所した(仮出所・・)としても、10時~15時でパソコンで作業、という状態でした。

「まだまだ仕事できる身体には遠いなぁ」というのがそのときの正直な実感!

それでも、行くことでいろんな人と話をすることで、休職時に一人で自宅に籠もっているよりは、外に出て話を聞いたら、それに刺激を受ける→そして自分の考えを再構築→それを他の人と共有、という循環もあって、人と話をすることは苦痛ではない時期でありました。
特に認知療法なんかで、人の話の受け止め方、みたいなものを考えていた時期でもあります。そんな時期に、だっしーさんから「ひとり夜話 vol.2」のお話を受けました。

だっしーさんに聞いたところでは、なんでも、GyaO時代から聞いていたラジオ番組がイベント形式になったもので、その後のイベント「ひとり夜話 vol.1」を行ったら面白かったらしくて「こんな面白いものは、純さんを誘って布教せねばならない!」と、理屈民族としての電波を受信してしまったのが、僕を勧誘した経緯のようです。

そんなわけで、僕が参加したのは、10/16大阪でのvol.2から、ということになります。

vol.2のお話の中で、表面的に面白かったのは、やはりお台場ガンダムの話でした。
ガンダムに限らず、ディズニーなどを宗教と擬して語るのはよくあると思います。ガンダム好きも宗教の一種でしょう。関西に住んでいる僕からすれば、阪神タイガースも(多くの)関西人の心の支えという観点では宗教の一種だと思いますし、実際そんなエントリを(昔の)ブログで書いたこともあります。

しかしガンダム好きを仏教に喩えた後に、その中でも大乗と小乗がある!という、そこまで突くか!という意味ではかなりノックアウトされました。ガンダムが好きで好きで好きすぎる人ほど、ファーストしか認めない!とか、そういう苦悶を抱えて、一生かかっての修行になり、それこそが解脱への道につながる。

この奥深い解説に納得してゲラゲラ笑いながら聞いていましたが、そんな話はさておき。

このvol.2の中で大きく感銘を受けたのは、ロジカルシンキングなんて言葉が洒落臭い、論理的思考を宿命づけられている「理屈民族」にとっての幸福とは何か?という話になったところです。

これまでの自分の中では、論理的思考を追究することのゴールは「正論を吐くこと」「真理に到達すること」と思っていたんですが、「ひとり夜話」の中で、岡田さんは「理屈をこねることができる頭の良さを利用して、聞き手の『共感』を得ること」と述べられました。
僕としてはこれはかなり衝撃でした。そうか、正論を吐いても「受け入れられないと意味がないんだ!」と。

これはたいしたことを言っていないのかも知れませんが、この「共感を得る」という視線は、それこそこの言葉自体が自分の中で「共感した!」という感じでした。そうするといろいろ見えてくるものがあります。

自分が社会で生きにくいと感じる場面があるとしたら、その「共感」を今まで考えずに生きてきたからではないか?あるいは、正論を吐けば、共感してもらえるだろう、という空気があったからではないか?特にネットの世界だと、ネットで言論ブログをやっていた経験からも、尚更のこと「正論」に拘り、結果として自分が生きづらいと思っていたのではなかろうか・・?

他人と話をする時に「正しいことを言う」から「共感してもらえることを話す」「共感してもらえる話し方を考える」。
このパラダイムシフトは病気からの立ち直りを考えるときに役に立ちました。

うつ病の書籍を読むと、コミュニケーションの問題が話題になることがあります。
少し専門的な表現だと、アサーションという名称で説明をされてまして、適切な日本語に訳すのが難しいですが、強いて訳語を作るなら「自他配慮」辺りでしょうか。

自分の言いたいことだけを主張し、相手の言い分を聞かないのを「アグレッシブ」、相手の主張を一方的に飲み、自分の主張を飲み込んでしまう「ノンアサーティブ」として、アグレッシブ、ノンアサーティブ共に、アサーションの観点からはいずれも問題ありとされます。(特にうつの人は、自己主張を抑える(=ノンアサーティブ)ことで「いい人」を演じるという傾向があり、自己主張を抑えることは、ストレスの原因になるので、メンタル的に潰れやすいということですね)

僕自身については、ノンアサーティブとアグレッシブの両極端な部分がありました。

前者のノンアサーティブな面については、ブログをあんまり書かないとか、そういう形で出ていると思ってください(笑)しょこたんみたいな真似はできんなぁ。
後者のアグレッシブな面について、ですが、議論や理屈に通じるということがそれまでの「正しいことを言う」という解釈による言い方だと、うつの人と話をする時に、きつめ(アグレッシブ)な受け取り方をされるので、どうしても、アサーティブなやりとりというのを、復職センターでは推奨されることになります。
この言葉は、ここで暮らすときにはキーワードになりますね。

では、アサーティブとは何か、と考えると「あ、そうか、岡田さんが言うところの『共感』と同じやん!」となるわけです。

そして、ここで示唆されていることは、

1.理屈は話す技法によっては、同じ内容で相手を説得もできるし、反発させることもできる、ということ。
2.人間の感情というのは文章の内容とは切り離して考えることができる、ということ。

の2点です。

正論というのは、どや顔をして「この理屈の正しさを知れ!」という言い方もあるんですが、表現の仕方によって「この考え方ってどうよ?」という、自分の意志を提示し、それに相手の意志との共有を図る、というのが「正論」の正しい使い方に気がついた、というべきでしょうか。
そしてコミュニケーションにおける成功(説得できたという状態)は「共感をしてもらう」ということです。

もっと論を進めれば、自分の話したい意図・気持ちが正確に伝われば、言葉による表現、巧拙は重要な問題じゃないという考え方もできます。多少文章に無理があっても、勢いで圧倒して自分の主張が伝わる文章!こっちの方が、共感させれば勝ち。これは、うつで休職中におけるコミュニケーションを考える上で、非常に重要でした。


というわけで、今回はここまで。
第2回以降に続きます。


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プロフィール


佐倉純

Author:佐倉純
日本と桜の花と寝台特急「さくら」をこよなく愛する、そして最近カメラに目覚めたのんきなプログラマ。
日本の事を憂いてみたり、日々思ったことをまとめて、綴ったりしています。その合間に写真も撮っています。
時々子供のネタなんかも。

ぜひゆっくりご覧ください。


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