さくらのみや日記

さくらと日本と鉄道好きな、野良プログラマのブログ。

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憲法記念日なので

せっかくの憲法記念日なので、この文章でも載せておこう。
引用元は、レトリックの香西秀信先生の「論理戦に勝つ技術」から

断言しても良い、現行憲法が国民の上に定着する時代など永遠に来る筈はありません。第一に、「護憲派」を自称する人達が、現行憲法を信用してをらず、事実、守ってさへもゐない。大江(健三郎)氏は憶えてゐるでせう、座談会で私が、「あなたの護憲は第九条の完全武装蜂起だけでなく、憲法全体を擁護したいのか」と訊ねた時、氏は「然り」と答へた、続けて私が「では、あなたは天皇をあなた方の象徴と考へるか、さういふ風に行動するか」と反問したら、一寸考へ込んでから、「さうは考へられない」と答えた。記録ではその部分が抜けてをりますが、私はさう記憶してをります。或は氏が黙して答へなかつたので、それを否の意思表示と受け取つたのか、いづれにせよ改めて問ひ直しても恐らく氏の良心は否と答へるに違ひない。が、それでは言葉の真の意味における護憲にはなりません。

(福田恆存「当用憲法論」)



福田先生はもうすでに見切っておられたわけですね。護憲派というか、9条教というのが正しいですわね。


read me!

唐突にですが、学生の頃からご多分に漏れず英語が苦手で、今でも得意という気持ちはありません。
しかし、言葉はあくまで意思伝達のツールである、という考えから、英語圏の人と話をするのは身振り手振りのいい加減の英語でもコミュケーションを取るのはむしろ好きだったりします。
仕事でもいわゆる技術英語を用いるわけですが、コンピュータの世界はむしろ直訳で英語がそのまま業界用語的になっているので、そこはそんなに困らなかったりするわけです。

まぁそれは枕として。

最近は娘が家にいる間に教育テレビなんかを見る機会が多くて「おさるのジョージ」と「ひつじのショーン」という作品を視ていました。
どちらも海外作品で、セリフなどは日本語訳がしてあったりするのは英語の知識はいらないのですが(特に「ひつじのショーン」はクレイアニメで、いわゆる擬音でセリフを表現するというアニメなので、日本語すら出てこない)
この2つを比べて見ていると興味深い。

ぶっちゃけたところ自分の気持ちを書いてしまうと「おさるのジョージ」に出てくるのは主人公のおさるのジョージのほか、周りの人間のあまりのアホっぷりに、むしろイライラ感すら覚えてくるのですが「ひつじのショーン」はひつじでありながら実に人間的に振舞ったり、主役のショーン以外にも(数少ない人間である)牧場主とか、牧羊犬のピッツァーがあるときは主人に尻尾を振って羊を追い回すかとおもいきや、牧場主がいないときはショーンとつるんでサボってたりなど、こういう人間臭さが実に面白かったするんですね。

この両者の作品を考えると「おさるのジョージ」はあくまで幼児向けの教育、「ひつじのショーン」は大人でも楽しめるユーモアを含んでいることがわかってきたのですが、前者はアメリカの作品、後者はイギリスの作品なんですね。

これは僕の偏見なんですが、イギリス人ってのは、どうしても作品なりに、毒ではないにしてもスパイスを混ぜないと気がすまないといけない人種なのかなぁ・・・と思ってしまいます。実際「ひつじのショーン」に関しては、常に主人公めでたしめでたしにならず、ドラえもんで言えばのび太が秘密道具を悪用して自業自得に陥るオチがたまにありますが、そんなエピソードも出てきます。「おさるのジョージ」では見られないですね。

どうも私のなかではそんなイメージがあります。英国人という人種に対して。偏見なのかなぁ。

話は再び飛んで、自分の学生時代のお話になります。
学生時代から浪人時代、暇つぶしにナブコフの「ロリータ」を読んでロリコンに目覚めた私ですが(ぉぃ 英語の勉強も兼ねて「ふしぎの国のアリス(Alice's Adventure in Wonderland)」を英語版・日本語版の両方を買って翻訳の勉強をしていました。
確かに「不思議の国のアリス」は、ルイス・キャロルことドジスンさんが当時5歳くらいの姪っ子向けに書いた作品なので、難しい単語は出てこず、文法的には難しいことはないので、単に目の前の文章を直訳するだけなら特別難しいということはないのです。
ただこれは英語や数学の知識の基礎ができていないと、作品としての面白さがまったくわからない(笑)

それは当たり前ですね。いわゆる言葉遊びが作品の面白さを支える重要なポイントなので、例えば一つの言い回しが文脈によっていろんな意味を持つとか、そういうところは大学受験生ごときでは難しかった記憶があり、ようする訳せるけれど意味がわからない状態になってしまうんですね。
例えるなら、谷川俊太郎さんの児童向けの有名な詩「いるか」

 いるかいるか      いるかいないか
 いないかいるか     いないかいるか
 いないいないいるか   いるいるいるか
 いつならいるか     いっぱいいるか
 よるならいるか     ねているいるか
 またきてみるか     ゆめみているか

を英訳してどう面白いのか?というのを考えるとわかりやすいかもしれません。

そして、こういう時に関しては、自分が英語の成績があんまり良くないというのは損をしているかもしれないなーと思う瞬間であったりします。

その究極のところが、僕が大好きなSPAMネタを扱ったモンティ・パイソンのネタですね。
ランチョンミートの「SPAM」のCMがくどいというのをパロディにしたモンティ・パイソンのスケッチですが、転じてインターネット上で鬱陶しいメール「SPAMメール」の語源になったのは多くの方が周知の通り。


さてこのネタは単にしつこく連発SPAMという単語といきなり歌い出すバイキングたちの奇行だけでも、言葉の意味がわからなくても楽しめるのですが、この「SPAM」という単語が「スパム」ではなくて「スパーム」と長く発音しているのがこのスケッチの裏の楽しみ方で、スパームと発音すると「speam」という意味になり、この単語を踏まえて同じスケッチを見ると「Lovely speam!!」だの「腸につめるのがどうのこうの」だの「スカンジナビア半島の先端からバイキングが・・」とかトンデモな内容になってしまうというのがわかります。

正直なところ、これのこの面白さがわかったときはショックでした。「英語まじめにやれば良かった!」(笑)

モンティ・パイソンのメンバーのエリック・アイドルなんて人は、言葉遊びの天才(のハズ)なので、このあたりの英語のヒアリングが出来る人が聴くと、たくさん面白いネタがいっぱい隠れているんだろうなぁと思うとくやしさを感じることを思います。

ま、それだけなんですけどねっ!

ちなみにタイトルの「readme.txt」は、フリーソフトなどでお約束としてマニュアルの役割を果たすテキストファイルによく付けられる定番のファイル名ですが、わかりやすくいいですね。これははるか昔、パソコンのファイル名が(拡張子抜きで)半角8文字時代の名残だと思いますが、直訳すれば「私を読んで」ですから、まぁ意図を伝えるにはよくできたファイル名だと思います。

この「readme.txt」」の元ネタですが、これは「不思議の国のアリス」の「drink me!」を元にしたのかなぁ・・というのが私の推測ですが、PC業界には、この手の「英語文化圏での教養」ってのが試される時がありますね。。学問としての英語は別にして、教養としての英語は理解できるレベルにしておきたかった。まさにトホホです。


「符堅と王猛」のレビュー書きました。

最近時間がとれないな~という言い訳を埋めるべく(正確には書くネタが思いつかない・まとまらない)ので、久しぶりにレビューでも。

五胡十六国時代は中国史が好きな人間でも一度は心惹かれる千々乱れる世界は、日本の戦国時代に近いものを感じるからでしょう。
ですが、日本の戦国時代のように、おらが町の英雄がいれば、それなりに語ることもできましょうが(大阪生まれの僕には三好家とか微妙だなぁ・・・。高槻住まいの身としては高山右近か)中国でしかも五胡とあるように民族入り乱れてとなると、もう何が何やらですね(笑)




中国史上でもっともカオスな時期、晋末から始まる五胡十六国時代(魏晋南北朝時代)の人物を描くという意欲作。
作者の小前亮さんは、田中芳樹さんに勧められて中国史ものを上梓するという気鋭の作家です。

中国史好きでも、正直なところ、五胡十六国時代(最近は五胡という言い方が少数民族への配慮に欠けるということもあって、漢末の黄巾の乱~隋による統一までを魏晋南北朝時代という言い方をすることがあるみたいです)というのは、国ができては滅びで、血生臭さを感じる時代で、歴史を生き物として捉える想像力たくましい人たちにとっては、一度は興味がわく時代だと思います。

ただいかんせん、国ができては滅びできては滅び分裂し、を繰り返すので、国の名前・地域・人物を覚えるだけでも挫折してしまいます。(しかもそれらがどの民族で・・というような感じですので)
日本の戦国時代でも、織田信長が桶狭間で戦っているころ、一方薩摩の島津では、毛利では、東北の南部では・・・みたいなのを年表にするようなものなので、どこから手をつけていいのかわからないというのに陥ります。

その中で傑物といえる人物が本書で主役となる、符堅と王猛という人物。
そのなし得た業績だけを見れば日本の戦国時代で言えば、統一にもっとも近づきながら果たせなかった織田信長に擬することができましょう。

当作品の中では、五胡十六国時代の混沌とした時代の中期。時期でいえば4世紀末で、三国志の時代が終わる晋の天下統一から約100年後の時代になります。

符堅という人物は、漢民族を中華とみる史観からは「蛮族」の一つ・羌族という出身ながら、関中に秦(前秦)という強国を打ちてます。秦の当時の領域は、始皇帝擁する秦の領域に近い、長安の前後を領域とした土地で、符堅即位前は、北東は燕(黄河北部一帯を支配する鮮卑族の国)、南東は東晋(三国末の晋が江南に逃れて打ち立てた漢民族の国)に挟まれて苦戦しますが、徐々に富国強兵を行い、国力をつけていきます。

その際には、符堅は「中国の統一のためには、羌族だ漢民族だ鮮卑族だといった民族のことを考えていけない」という理想を掲げ、王猛という漢民族出身の宰相を得て、力を貯め、まずは朝廷の腐敗が進んだ燕を征服して行きます。
燕は鮮卑族の国なので、漢人の王猛としては付かず離れずの距離を保つことを主張しながらも、理想に邁進する秦王・符堅は鮮卑族といえど自分の意見はいつか理解してもらえると信じ、鮮卑族の有力者で将軍としてもすぐれた慕容垂を重用していく。

その後時代も下り、秦は中国のほぼ大半を掌中に収めます。東は燕の旧領から朝鮮半島の付け根まで、西はシルクロードの入り口に当たる涼州を治め、西南の四川は小さな勢力が小競り合いばかりで秦とまともに戦える勢力は無く、秦に近い民族と東晋に近い民族が入れ替わり立ち替わり争っている状況。

そして、残る大きな勢力として、江南にいる東晋を残すのみとなった時に、ここは漢民族の最後の砦だからうかつに攻めてはならないと主張する王猛と、漢民族といえど自分の民族融和の理想は国が安定すればわかると主張し東晋攻略に向かおうとする符堅。

そんな折、王猛は病を得て世をさり、抑えの効かなくなった符堅による南征が始まり、中国史上でも「赤壁の戦い」に比すべき歴史の大転換期となる「淝水の戦い」と呼ばれる十六国時代の最大の戦いが開始される・・。

話としてはそんなところで終わります。


小説ではどうしても、符堅という人物はとてもとても甘く、腹立たしいくらいの甘さを感じます。
反乱を起こしたものでも赦しては元の職にもどしてやるなど、覇者としてはどうなのか?と疑問もわきますし、始皇帝を支えた宰相李斯を思わせるような、万事法に照らすべしの王猛の方がよっぽどか筋が通っており、この二人が現実では馬があったのかが非常に謎でしょうがないのですが、仮にこの人間関係が本小説におけるフィクションだとしても、現に符堅・王猛のコンビは多くの難しい民族の対立を緩和させながら中国の大半を統一していったことも事実で(符堅死後は慕容垂も含めて鮮卑族も独立をし、五胡十六国後期と言われる戦乱時代が始まるわけで)符堅・王猛ともに、中国統一に王手をかけることができたのは、三国末の曹操を思わせる傑物といえるのは事実ではないかと思います。

この時代を理解するには、年表という骨に対して、小説という血肉を与えたという点で、作者にとっても難しい作品だと感じましたが、時代理解のための最初の楔を打ち込んだという点では、作者の視点に点数を上げるべきではないかと感じました。


久しぶりに仕事が一段落したので

今週の頭に入って、やっとこさ一つ仕事が完結しそう。。。というところで、やっとこさぼちぼち自分の時間みたいなものが取れるようになってきました。
しかしながら、次の仕事の日程やアサインなどされていると、少しずつ逆算をして準備しておかないといけないこともあったりします。
加えて私生活も大変(とは言ってもピークの時期は過ぎた感じなので)なのですが、やっとこさ自分のペースを取り戻せるかなぁ。そして、どうにか自分のやりたいことのいくつかにむけて活動開始です。

ところで記事を失念してしまったのですが、tumblrに流れて着た記事の中に興味深いのがありましたので一つ。
なんでも最近のテレビなどの電化製品で中国韓国勢が押しているのは、日本の技術者が指導してきたことが原因の一つで「彼らは売国奴だ」的に呼ばれているということ。

これは開発の現場に携わる人間から言わせれば、どこまでエンジニアをバカにしたらすむのかなぁっていうお話。

これまた別の記事で見かけたのは、とある経営者の言葉で「エンジニアなんてモノさえ作れたらそれ以上なにも望んでいないんですよ」的なことを言ったというもの。

うん。確かにエンジニアという生き物は、ソフトであれハードであれ、システムを構築して完成させた瞬間に得られるアドレナリンというのは、麻薬みたいなもので、確かにあの達成感ってのは、経験者でしかわからないもの。ぶっちゃけたところ、はやぶさの映画をみたい程度で安っぽい共感&感動なんてされてもなぁ・・・という感じで。

確かにエンジニアという生き物は、システムを構築して完璧に近いモノを作ることは金銭で得られるモノ以上の何かがあるというのは確か。これはなので「モノさえ作れたら」云々発言はある意味で真実だと思う。

でもこれは諸刃の剣でもあると思うんですね。つまり「モノさえ作れりゃその会社じゃなくてもいい」し「日本である必要でもない」

今みたいに即戦力が求められて、会社もじっくり腰を据えて何かするでなくすぐ結果だけ求めて、育てようという土壌がないのに、忠誠心だけ求めたり、あげくに「売国奴」なんて笑止でしょうと。

前にどこかで書いたのですが、そういう意味では、エンジニアにモラルを求めるのは無意味だ、というのが僕の主張です。同じことをできるなら給料なり他のことを天秤に掛けてそちらに転ぶことにためらいを感じない。そういう土壌は今のエンジニア、特にIT系には多いと思います。
でも、これ、仕方ないんじゃないかな?ものづくりとか言っても、そのモノを作るのは誰やねん、って話になったときに、やっぱりそこに行き着くんですよね。また明日にでも時間があればぼやきを(笑)


機械には向かない職業

最近は時間が無い上に書きたいこともないというか、書こう書こうと思っても、メモを忘れていたりとか、メモを取っててももう1ヶ月以上も昔だとか、まぁ時間がないのを言い訳に色々サボってたりしますね。

いや、純粋に仕事が忙しいというか、久しぶりに商品としてエンドユーザーに流れる、いわゆるBtoC商品のファームウェアの開発なんてをやってますが(それまでは割合社内ツール作りだったりってことも多かったので、コンシューマに載るブツを作ったのは久しぶり)まぁ胃が痛くなること。

コンシューマを想定した場合だとマニュアルに載っているレベルではなくて、そんな奴はおらんやろ~的なことまでテストだったり確認をするので、実際に作られるプログラムに対して、バグなどの発生率に対する(言い換えれば品質に関する)要求はメチャクチャ高いものがあります。

もっともだからと言って泣き言なんてのは、一介のプログラマがぐちぐち言ってもしょうがないですが(実際に自分の商品に対しての知識不足から来るバグってのもありますし)この辺りの、特に組み込み系開発ってのは難しさがありますが面白さでもありますね。

マジな話をしてしまった。

今後プログラマってのはどうなっていくのかわかりませんが、メンテナンス専門SEとでもいう人達は現れそうな気はしますね。

黎明期にガシガシすげぇ人達がコーディングしてくみ上げたものをメンテナンスする。

メンテナンスって言っても単に配管が壊れたら交換するだけ、ってレベルじゃなくて、情報系のシステムはシステムという完成形であると同時に、時代の要請によって変化をしなければいけない、絶対にゴールというものがないという性質があります。

うん、このメンテナンスができるというのができれば、山のように書かれたC言語とJava言語の世界でも生きていけるかな?と気楽なことも考えたりしますが、やっぱり、エンジニアの仕事は、事務作業を機械化に推し進める一方で、生身の人間の仕事の何割かを奪っているような気がしてなりません。

でも、でも思うのは、やっぱり最後に回帰するのは「アナログの世界」なんですよね。

僕はデジカメの開発を担当している某氏と話をした時に、露出も絞りもシャッター速度も顔認識も笑顔のタイミングでシャッターを決めることができても、構図だけは人間じゃないとできない、と言っておりました。つまり、カメラマンという職業が腕を発揮できる根本のところは絶対に残るわけですよね。

自分の仕事に限らず、どんな仕事でもそういう人間ではなければできないところってあると思うのですが、その分、本当に女衒みたいにモノを右から左に受け流すだけのことをやっている人は、本当に辛い時代になるのかも知れませんね。


「読んでない本について堂々と語る方法」レビューです。

ブクレコという読書好きがレビューをしあうってフォローをする、というツイッターのようなサービスをやっているのですが、そこでレビューを書いていますので、もしよろしければ、フォローなどよろしくです。

というわけ?で。

http://www.bookreco.jp/my/reviews/detail/31959
と言う本のレビューを書きました。


読んでいない本について堂々と語る方法読んでいない本について堂々と語る方法
(2008/11/27)
ピエール・バイヤール

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タイトルは結構おちょくった感じにも感じますが、実態はそんなにふざけた内容ではなくて、かなり真面目な本です。
著者のピエール・バイヤール氏は大学で文学を教える教授なんですが、なにせ本人が「読書嫌い」という、じゃぁなんでそんな仕事を選んだんだよ!とツッコミたくなるんですがともかく、仕事から読んでない本についても語るっていうか、本職だとしても世界に全部ある本なんて読めるわけないじゃん!的な開き直りから、如何に「本を読まずに本を語る」ということを詭弁くさい文章を交えながら話を進めていきます。

そんななかで、読書という行為について、読書を通じて考えるというメタなことを考えます。

まずもって「そもそも読書という行為が高尚と言えるのか?」
なるほど、考えて見れば、このタイトルの書を手に取る人を想定して考えると、どきっとする質問です。
読書を高尚と考え、かつ、たくさん本を読んでいると見られることがプラス評価になると考える人が、思わず手に取りたくなるタイトルですものね。かなり鋭い質問です。

こういった切り口から、読書という行為についてメタに考えることができる。一つの本を選ぶということは、同じ時間別の読む機会のあった本を捨てることになるわけで、読書をすることは、同じだけ読めない本も増えるという二律背反した内容から、読んだけど内容を吟味出来ていない本もあれば、読んでいないけれど内容は知っている本だと、どちらが「読んだ」ことになるのか?などなど、フランス人らしい(←偏見)ネチネチネチネチした質問がダラダラと続くのですが、読書が好きな人は、やはり色々考えます。

・・・とここまで書いたところで、僕は実は半分ほど読んでいなかったりしますが、この本のレビューそのものについて「読んでない本について堂々と語る手法」が適用されているのではないか?と思うくらいに、面白そうなレビューが並んでいるので、どんどん疑心暗鬼に陥ると同時に、本は最後まで読めなくてもいいや、とか、読まない本があってそれについて語っても、嘘ではないわな、とか、ともかく色々考えさせられる本でありました。


少し時間がとれるようになってきたか

なんてことを永劫回帰のようにかいております。
それにしてもまとまった何かをじっくり考えて文献を丁寧に調べて書くことのできる人ってのは、正直にすごいなぁと感じたりしますね。
政治ブログをやっていた時代から思っていたことですが、自分はどうもその手の手合いのことが向いていません。。。(笑)

それでも政治ネタをずーっと書き続けることができたのは、書くことで自分が少しずつでも詳しくなっていって、それなりのポジションを確保できたからだろうなぁ。。。
逆にそのころから、興味をなくしてしまった時期でもあります。
(病気で体調を崩したという問題も大きいですが)

政治ネタ・・・右がどうとかよりも、昨今のネット右翼とかと同一視されたくないってのもあるかもですね。なんだかね。

眠くなった。。。また今度。



落合博満「采配」読了

とりあえずリハビリで、本のレビューから。
元ネタはブクレコに載せましたので、もしよろしければ、そちらのフォローなどもよろしくお願いします。

采配采配
(2011/11/17)
落合博満

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中日ドラゴンズに、球団史に燦然とした栄光をもたらした落合監督の書。
野球に限らず、指導者の観点でチームを勝利に導くためにこらした多くの、まさにタイトル通りの采配についての微に入り細に入りの解説がのっています。

ちなみに野村克也氏とも同じく、二人で野球の話を始め出すとオタクのごとく話こむため、いつまで経っても野球談義が終わらないとのころ。
それでも二人の指導方法が全く同じではなく、野村監督の代名詞たりID野球については違う見解を示していたりもし、落合監督独特の野球観・人生観・仕事観が見え隠れします。

ただ両者に通じることで共通していることでは「先入観は成長の妨げ」という姿勢からか、選手生命・指導者時代を通じて「学ぶ」「変化する」ということを常に続けてきたこと。
プロの世界の厳しさをどちらもこういう形で表現しています。
野村氏に関しては、余裕が生まれてきたのか、人間的に丸みが出てきたのか愛嬌を感じさせますが、落合氏に関しては、真面目なのかどうにも負のイメージが強いですが「勝負に勝つ」ということに、どんな些細なことも見逃さない。まさに職人的な求道者としての姿勢は、大いに学ぶところはあります。
そして落合氏の言葉で言えば、真理は常にシンプルである、という言葉の意味も含蓄のあるものとなって浮き上がってきます。

文章も読みやすいので、ご一読あれ。
僕は阪神ファンで煮え湯を飲まされた方だけど(笑)偉大な指揮官にはそれ相応の経緯を表すことは恥にはならんですよ。


やっといろいろ落ち着きました

去年末からいろいろ仕事関係もですし、それ以外のことも含めていろいろありましたので大変でしたですが、なんだかやっとこさ落ち着いた感じです。
って、なんかぼんやりとした日記だなぁ。

ちゃんとしたこと、そして思索に耽って書きためたことを、ちょっとずつ書いてみようと思うのです。



「仕事をしたつもり」読了

読み物としては薄いな~と思いつつ、頭を休めるのに読むのには十分。
要するに「2chまとめサイト」的な読み物なんですよ。
仕事をしたつもり (星海社新書)仕事をしたつもり (星海社新書)
(2011/09/22)
海老原 嗣生

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章をザッピングする感じでまとめ。

●質より量が評価される「量の神話」
 たくさん資料を作ったり残業をしたら、仕事をしているように「見られる。」
 ・・僕のようなIT業界では「人月の神話」という名著がありますので、それを想起します。
 とは言っても、未だにIT業界も人月で換算しますね、仕事量を。

 →周りからはどう見えようとも「量よりも質」を置くよう転換する。
  量は誰もわかりやすいから、大量にやれば仕事をしたように見えるけれど、質はわかりにくい。評価されにくい。けど、明らかに大事なのはこちらのはず。

●形にこだわる「ハコモノ思考」
 数字のノルマを設定すると、数字のノルマをこなすことが目的化してしまう。
 ハコモノの最終形が「ビジネスモデル狂」。
 ビジネスモデルは「ハコモノ」であり、大事なのは「コンテンツ」。そこを抑えずに取り入れてもこけるだけ。

●みんなで一緒に考えようという「大義」
 トップダウン組織でお上にもの申すのが閉塞的な組織での「みんなで一緒に考えよう」は手段としては画期的かも知れない。
 でもそれが普遍化してしまうと、逆に「みんなで一緒に考える」ことが目的化し、かえって閉塞感の原因になる。

●業界トップの真似をする「横並び意識」
 業界トップがやっているからウチも・・は、思考停止。
 ライバルがやっていることに限らず、たとえば社内で成功した事例の(何も考えない)水平展開や、ミクロ的には「過去の自分の習慣を惰性で続ける」も含まれる。

 成功経験がある場合「何故成功したか」「他の場面でも適用できるか」を考えずに導入したらダメ。

●安全策と奇策
 安全策と奇策は「熟考していない」点で同じ。
 奇策にも合理的な奇策とそうでないものがあり、前者の奇策を行う。

最後の「安全策と奇策」の話では、実際のエピソードとして写真家の名取洋之助の話があり、その話がこの本での収穫かな。
引用しておきます。(P.206~P.207)

---
 名取がミュンヘンで過ごしていたときに、近くで大火事があり、彼も現場の写真を撮って投稿しました。
 その写真はどんなものだったか?
 美術館の焼け跡で、年老いた芸術家たちが、「自分の作品は大丈夫か?」と悲壮な顔で探しているものだったのです。
 カメラ小僧の多くが、火事で黒焦げになった死体などを投稿したなかで、彼の写真はひときわ編集者の目を引きました。
 なぜなら、彼の作品がいちばん火事の悲惨さを伝えていたからです。
 火事の本質とは、阿鼻叫喚の地獄絵図ではなく、大切なものを失うつらさである。そこに名取は気づいていました。
 そこで目の肥えた編集者はこの写真に最高賞を与え、そのことがきっかけで、彼はウルシュタイン社に採用されることになったのです。
(ウルシュタイン社・・・ドイツの通信社。佐倉註)
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一応の所備忘録をかねて、メモ書きしてみました。


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Author:佐倉純
日本と桜の花と寝台特急「さくら」をこよなく愛する、そして最近カメラに目覚めたのんきなプログラマ。
日本の事を憂いてみたり、日々思ったことをまとめて、綴ったりしています。その合間に写真も撮っています。
時々子供のネタなんかも。

ぜひゆっくりご覧ください。


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