英霊か、犬死か。
しばらくネタ書いていませんでした。サボっていたというよりも、お盆休みでだらけていた、という感じです。すみません。
終戦の日の前後のtwitterで見ていたのですが、戦争で散華し、靖国神社に祀られている戦死者は、英霊なんかではなく、犬死しただけの存在だ、というような意見を見ました。 つまり、今風にいえば、大日本帝国というブラック企業の社畜として死んでいった兵士たちや、戦うこともなく死んでいった兵士たちを指して、英霊だと祀るのはおかしい、という調子で。 確かに、戦争で死んでいった人たち一人ひとりの心情を慮ることは難しいので、それを一緒くたに「英霊」と祀るのも、どこか無理があることかもしれません。 私自身には、身内には、幸運にも戦争で命を落とした親類はいないのですが、幼少の頃近所にいた、私の父と同世代の人は、実父を戦場で亡くしており、戦後に遺族として銀杯を賜っているのですが「こんなんで誤魔化されてもなぁ・・」とおっしゃっていたのを覚えています。 こういう風な実体験に基づくものからくる意見には、英霊だとか犬死にだとか、議論するものではないと思いますし、他人がとやかく感じることではないと思います。 そういう卑近な例ではなく、歴史として感じるとしたらどうなるのか。 これは、正直なところ、歴史の悲劇に散華された方々を、英霊にするか犬死した兵士にするかは、後世の人間の仕事の一つだと思うのですね。 日本の歴史の流れの中に生きているという意味では、今生きている私もですし、先の戦争で散華された方々、それ以前の歴史も含めて、自分の身体の一部に、日本の歴史と関わりがある、というふうに感じています。なので、過去、それぞれの人々が自分の信念のもとに殉じたことに関して、私は、そういう形で、あれは犬死だ無駄死にだ、と「断罪」することはできないのです。 この断罪をする立場というのは、私の感覚なのですが、過去の歴史を、自分は違う高みから俯瞰して語っていること、そう感じる辺りが受けいられないところなんでしょうね。 確かに、先の戦争の是々非々を論じる、客観的な目というのは必要です。でもそういう学術的な論点と、慰霊の問題、日本国民としての受け止め方、それらを混同するのは歴史に対する冒涜だと感じてしまいます。 もう少しいえば、その時代ごとに対して、信念を持って生きた人たちを、別の時代の人間が軽々しくジャッジするものなんだろうか、という感じもします。極端な例でいえば、自動車社会に生きる自分たちが、馬車しか存在しない時代を「なんでそんな効率の悪いもの乗ってるの?」と笑うようなものでしょうか。。。 そもそも、自分たちも、歴史の一部に生きている、という自覚があれば、自分たちもまた、未来の誰かに評価されるときが来るわけです。「失われた20年」なんて今でも言われていますが、100年先にはどう評価されるのか。今でこそ、戦争をせずにやれてこれた平成の30年を、良かった時代と感じていても、未来にはどう評価されるかわからない。「北朝鮮のミサイルに何一つできない腰抜けの世代」と言われるかもしれない。 今の時代が、そんなにも褒められたものなのかどうかは、後世になってみないとわからない。 未来の視点から、過去の過ちを断罪するのは、簡単ですが、それは試験問題を必死に解いている学生を、答案用紙を見ながらあざ笑う姿勢に等しい。 また、その態度、しっぺ返しは、将来、自分たちも「断罪」の立場に立たされることを覚悟していない人間でなければ、やってはいけないことだと考えてしまうのです。 |
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