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さくらのみや日記

さくらと日本と鉄道好きな、野良プログラマのブログ。

ものを書く人は、しょうもないイチャモンに屈してはいけない「文体の舵を取れ」



ル・グィンの紹介はさておいて(代表作は「ゲド戦記」シリーズ)この人の、小説以外の文章は、講演をまとめた「いまファンタジーにできること」という別の作品でも読んだことがあります。
まぁなんというか、小説というか、表現活動において、非常に厳しいと言いますか、ストイックな人という印象です。
それを他者と言いますか、映画版のゲド戦記に対しての評価などにも向けられましたが、原作者としてごもっともという感じだったりもします。つまり、表現において、すごく真面目な人、全身全霊を注いで表現している、と言ってもいいかと思うのです。
先程紹介した「いまファンタジーにできること」においても、ファンタジーの世界では切っても切れない縁のものとして、人間以外の生物との交流があります。ファンタジーの世界なので、それはドラゴンかもしれないし、ホビットかもしれない。
ル・グィンの舌鋒で厳しく追求されたのは、現実世界に存在する野生動物についての表現でした。
しばし、野生動物がファンタジーで描かれる際に、その行動の是々非々が、しばしば人間の価値観で判断・表現されることがあります。
一例をあげるならば、親が犠牲になり子を助ける、というシーン、という場面で、たしかに人間社会ならば美談になるところかもしれないですが、果たして、それは野生動物の世界で「美談」として正しい表現なのかどうか。
そういったことを問いかけています。

「いまファンタジーにできること」についてはここらへんにしますが、今回の「文体の舵を取れ」は、小説等の表現についての指南書・文章教室の体裁をとっています。
ル・グィンは2018年に死去していますが、文章の中には、少し前のTwitter等のSNSで流行した「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」についての言及などもあったりして、この時代の表現というものにすごく神経を尖らせていたというのがわかります。
(訳者の腕によるものかもしれませんが「文章警察」なんてワードも出てきて、時代を感じますね)

さて、その中で自分が少し読んだ中で、これはと思う話があり(これは、自分でも普段から思っていることでもあるので、いやもうおっしゃる通りで、って感じの話だったのですが)
「表現をする人は、そういう表現の警察に屈してはいけない。彼らがルールを作ったら、自分の意思で破っていかなければいけない」
というような文言があるのですね。

私自身は、こんな場末のブログで書いているだけなので偉そうなことを言うものでもないと思うのですが、ブログなりなんなりで一度表に出した文章は、そういった些末な表現でのクレームで謝ってはいけない、という風に感じているんですね。逆にいえば、それなりの覚悟で書けよ、と。
Twitterなどで簡単に書いて炎上して、炎上に便乗して、という世の中で、ありとあらゆる「表現警察」が跋扈する中、あえて表現警察に負けない強い意志を持つこと、誰かが傷つき腹を立てたしても、これは言わないといけない、というのが、表現の基礎であり原点なのではないかと感じました。

そういえば、その昔、このブログで書いた内容で、誰かが検索で飛んできて読んで、傷ついたから謝れ、みたいなわけのわからないコメントを頂戴したことがありますが、私の回答としたら「そんなヘボな検索エンジンを使ってる自分を呪ってください」とか、そんな内容だったと思います。



劉秀を描くお話「光武大帝伝」

久しぶりの記事なので、本の紹介でも。



ライトノベルでも、中国史ものの話が増えてきたのでしょうか。その中で、異世界転生でもなんでもなく、正面から描いた後漢の光武帝(劉秀)のお話。まだ続巻があるようですけれど、この人についての色々なエピソードは十分出てきます。

「官につくなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」

実際には、職の方は執金吾どころか皇帝になり、後漢200年の歴史の開祖となるのですが(妻は予言通りに陰麗華を娶る)それはさておき、チートとは言わないまでも、絵に書いたような快男児なんですよね。ただ快男児すぎて、小説としてインパクトに欠けると言いましょうか・・。

物語の主人公なり登場人物は、多少なりくせ者のほうが楽しかったりする場合もありますね。
中国物なら「水滸伝」なんかまともな人ほとんど出てこないか、まともな人ほど碌な目に合わない(笑)そんな極端な例はともかく、劉秀自身はまさに「鬼滅の刃」の炭治郎を思わせるような、好青年なんですよね。

ただ、周りは結構悲惨。

実の姉を戦いの中で失ったり、実の兄を味方の裏切りで失ったりと、なかなか悲惨な人生なんですが、そのあたりのドラマ性も一部くらいだけで、むしろ兄を失って劉秀が表に出てくるあたりから、名将鄧禹・呉漢・馮異といった人物が出てきて、一気に面白くなるのですが・・そこまではこの巻では紹介されないかな。

今はその待ち時間中、宮城谷昌光さんの「草原の風」で時間潰し中です。
同じ劉秀をテーマに、描かれていますが、落ち着いた歴史小説なので(それでもなお、劉秀という人物の「快男児」感は抜けないというか)変な異世界チートよりも、歴史上のリアルチートのお話も面白いかな、と思っても見たり。




マヴァール年代記再読(2) 「のじゃ姫」の系譜

少し前にyoutubeで「のじゃロリおじさん」とかいうのが話題になっていた記憶があるのですが・・・
「のじゃロリ」というのを解説しておきますと、語尾が「~のじゃ」と老女口調になるけれど見た目は幼女というギャップを利用した一つのキャラだったりします。詳細はこちらなど。
(実際には、中国地方の方言で、千鳥のノブさんのような言い回しを男女問わずにすることもあるので、普通に「のじゃ」が出てきたりもするのですが・・)

そういえば、と、田中芳樹さんの作品には、結構昔から、ロリではないですが「のじゃ姫」が出てくるなぁ・・というは、昔、ネタにしたことがあって。
銀英伝には出てこないのですが、アルスラーン戦記に出てくる女神官のファランギース→タイタニアに出てくるエルビング王国のリディア姫(こっちは10歳なので、のじゃロリそのものとも言える)なんて、脳内では同じ声でしか再生されないとかネタにしてたものです。

マヴァール年代記では、主役格の三人(カルマーン、ヴェンツェルン、リドワーン)とは別に、それに華を添える紅一点のアンジェリナ姫というのが出てきます。ヴェンツェルンの妹にして、後、リドワーンの恋人→妻となる人物です。

これが田中作品に出てくる「のじゃ姫」の系譜に忠実というか、女傑というイメージよりも、水滸伝に出てくる一丈青扈三娘のような剣技にたけ、かつ、洞察力も鋭い、という、その手のキャラクターのイメージ付に便利なのかな?と思ったりします。

田中作品に限らず、他の作品でも出てくるのですが、自分の中で印象深い「のじゃロリ」と言えば「狼と香辛料」の賢狼ホロなどを思い出します。あちらは「のじゃ」というより「わらわ」や「ありんす」と花魁言葉の中に「のじゃ」が混じっているような感じですが。

ただ近年になって「のじゃロリ」なんて言葉が出回りだした頃に、その元祖は?と考えてみたときに、アンジェリナ姫を思い出すんですよね。ロリではないけれど、のじゃ姫=鋭い・老成しているというテンプレを、無意識に生み出したキャラなのではなかろうか?と。


マヴァール年代記再読



田中芳樹さんの小説と言えば、銀英伝の地名度が圧倒的ですが、自分が最初に読んだのは、確かマヴァール年代記だったように思います。銀英伝に関しては、小説やアニメよりも、PC9801時代のゲームで入ったのが最初で、小説→アニメの順で入った、そんな記憶があります。もう20年以上昔になりますか。

当時は、創竜伝、アルスラーン戦記、タイタニア、七都市物語・・と、色々書いておられたように思いますが、その中で、困ったことに「完結している」という理由だけで、マヴァール年代記は読む価値ありの作品になってしまっています。まさか、20年前は、アルスラーン戦記といいタイタニアといい、20年経っても終わっていない、なんて事態は予想していませんでしたから。。


話の内容は、コンパクトにまとまった銀英伝、とでもいいましょうか。執筆は銀英伝の方が先、マヴァール年代記の方が後になります。
父親を弑逆し皇帝となったカルマーン、その事実を知りながら、その部下として仕え、いつかカルマーンから簒奪を企む、ヴェンツェルン、幼き頃の二人の学友にして、ただ野心もなく生きるリドワーンと、三者三様の主人公たちの話になります。
(銀英伝のイメージで言えば、カルマーン=ラインハルト、ヴェンツェルン=ロイエンタール、リドワーン=ミッターマイヤー、という感じ)

作品としては30年前の作品なれど、今これがライトノベルとして現れたら、もっと評価されるのに・・という感じもして、もっと読まれてもいい話なのになぁ。。と思います。

ただ「皆殺しの田中」の異名は、ここでも発揮されるというか、今思うと、マヴァール年代記にも、最後の方で「粗さ」が目立つんですよね。。。それは、当時、高校生の頃に読んだ頃には気づかなかったものが、この歳になって読み直したから気づいた、というのもあるのかも知れません。
最後は、カルマーンとヴェンツェルンが激突することになるのですが、ええええ、というか、タイタニアやアルスラーンの最後のあたりを思い出すと、むしろマヴァールの頃にその萌芽はあったと考えるべきなのか・・と思ったりもします。そう思うと、銀英伝の頃は、余裕があったのか、最後の話の終わりは綺麗に終わっているなぁ・・と思うんですよね。特に田中芳樹さんの作品は、謀略家だの野心家だのと言った曲者がたくさん出てきて、うまく「始末」しないといけないので、どうしても最後にそうなってしまうのかな?と思います。(銀英伝で言えば、最後にオーベルシュタインが死ぬシーンがありますが、主人公ラインハルトより生き残っていたら、話が終わらない気がしますものね)

物語は、最後を片付けるのが難しい。。。という実例かも知れないですね。


蝿の王

在宅ワークのため通勤しなくて良い分、余暇時間が少しあるから・・というわけでもないですが。
タイトルだけは知っていた「蝿の王」を読みました。一気読み。

さすがに書かれた時代が古いので(1954年)、内容は言われるほどの過激さは(今となっては)体感として感じないのですが、それでも一気に読んでしまうほどには面白い。
(ここでいう「古さ」というのは、今、手塚治虫を読んでも目新しさはないが・・というような意味合いで)

今みたいに、非日常のときに読むにはオススメ。
人間なんて、日常は人間らしくできても、極限状態になるとどうなることやら。

コロナ禍でマスク買い占めしたりしているのを見ていると、あんまり変わらないと思うなぁ。
大人も子供も。


はじめて学ぶ 中国思想 読みました

毎日5行でもいいので、なにか書こうと思っているんです。継続してみるのが大切かなぁと思いまして。
ネタがないときは苦労もするでしょうけど(苦笑)

で、今日は書評など



正直、タイトルに「はじめて学ぶ」なんて書いてあるんですけれど、初めて学ぶにしてはガチすぎませんか、これ(笑)
それとも、私の中国の思想史の知識なんて、初めて学ぶ以下だったということなんでしょう。

思想史と考えると、正直なところめちゃくちゃお得な本だと思います。割合、西洋の思想書、哲学書の類ですと、ソクラテス・プラトン辺りから始まって、転換期となるデカルト、そしてカント辺りから始まる近代哲学と、一貫して読む書物は結構出回っていると思います。
一方で、中国の思想史となると、たしかに単発ものだと多いんですよ。論語辺りから始まって老荘・諸子百家の時代、それから宋代になっての朱子学・陽明学と。
でも、それを一貫して学ぶとなると、なかなか難しかったりしますね。
例えば、朱子学が論語(儒学)からどう影響を受けて後継者として成り立っているのか、陽明学の位置付けは?とか。
そもそも論語が現れる春秋時代から、朱子学の宋代まで、1000年ほどの時間差がありますが、その間の中国の思想史ってどうなってんの?という問題があります。

論語や老荘といった、一つ一つの書籍を縦糸とするなら、これはまさに横糸に存在する書籍。これ一冊でもちろん中国思想史を全部語るのは難しいですが、手引書としては、かなりお得と言えます。
正直、初めて学ぶ、と言いながら、かなりマニアックです。章立てされている人名でも、初見の人も多いですし、その合間にコラムとして紹介される人も、殆どと言ってもいいくらいわかりません(泣)

そういう人物の奥深さは別にして、中国の思想史の面白さみたいなのは、自分が読んだ感想としては、意外なところにありました。
それは、漢字の表現の奥深さです。
西洋の思想や、もっといえば特にキリスト教などでも、例えば聖書の一節をどう解釈するか?というので、時代時代で都合よく解釈したりすることがありますが、表意文字である漢字文化の中国では、それが顕著にみられる気がします。

たとえば、中国史のなかで「理」というのをどう解釈するか、というのは、一つのテーマになっているのですが(自分の中途半端な解釈で申し訳ないですが、理と気は別にわかているとするのが朱子学で、んなわけないやろ、と言ってるのが陽明学、というような)こういうのが随所に出てくるんですね。
まぁ、だから「白馬非馬」の公孫龍みたいなが出てきたりもするのですが、こういう、ある意味、漢字をその場面、時代に応じて解釈を変えることによって、その時代のトレンドを作るというのは、良くも悪くも頭いいなぁという印象もしました。

いや、これ、日本人も時々やりますよね。「自衛隊は隊だから、軍じゃない」みたいな(ちょっとこれは無理がありますな)

あとびっくりなのは、中国の思想史って、結構古くから、特に西洋とくらべて、早い時期からメタ学問、形而上学に取り組んでいるんですよね(なんとなくですが、老荘ってそんな印象ですよね。上善如水だとか、<道>の考え方だとか)

ほんと、自分の全然知らない歴史が身近な国にあって、特に朱子学・陽明学は、日本の武家社会・明治維新にも影響を残していたりもしますので、立ち読みでもいいので、とてもおすすめの一冊です。


読書は自分のバロメータ

5月の中頃、いろいろ仕事があってほとんど廃人みたくなってました。

そこから2ヶ月ほど、ぼーっとしながら、自分の興味の話題のあるものから復活、というかんじです。
(その間には、自宅も揺れた高槻の自身があり、親戚が家が水びたりになってしまった倉敷の洪水があり・・)

最初はPCのゲームから。
次第に読書に。
最近になんて、新書やソフトカバーの本を読み切れるくらいになったので、
復活の足がかりはできたのかなぁと思っております。

と入っても、いろんな人と約束している瑞鶴の模型が、まだ進捗進んでません!状態で恐縮です。
(もちろん他の模型の青大将とかも)
これらは涼しくなってからかな・・・。暑くて集中力が続かねぇ・・というか。


休んでいる間は、與那覇潤氏の「知性は死なない」という本を読みました。

本屋でたまたまぶらぶらしていて、立ち読みで興味をもって開いたもので、風変わりな一品という感じでした。
機会があれば、感想を書いてみたいです。

そして、頭が動き出すと、いろいろ本を読みたくなって、最近はショーペンハウアー、ハンナ・アーレントとこのへんをじっくり読みたいなぁと思ってます。まだニーチェの残りもあるんですが・・・。


ともかく、読書はそれが勉強の全てではないけれど、まずは最初の頭のエンジンを回すには、読書から始めないといけないですね。またいろいろまとまったことが出てきたら、ここにも書きますね。


「若者殺しの時代」読書メモ

先に取り上げた、赤木智弘氏の「若者を見殺しにする国」の中でも、再三再四紹介される、堀井憲一郎氏の著作。この書を下書きに、赤木氏の作品は書かれてように感じるくらいに、本作は実に面白い作品、という風に感じました。



作者の堀井氏は、調べて見たところ、1958年生まれ。私のような1975年生まれから見ると、17歳差で、0.5世代くらい上の感覚という風なところでしょうか。(赤木智弘氏は1975年生まれ。誕生日まで考慮すると、私の1ヶ月後くらいの生まれのようです)
ここで、堀井氏の作品と、赤木氏の作品を読む上で「属する世代」というのは、とても重要な要素になります。
堀井氏の著作の中で出てくる「若者」という世代は一体いつの世代を指しているのか?とても重要な要素なのですね。

本書では、堀井氏自身が「若者」だった世代について、すなわち、1980年代を中心に回顧をする、という形式で、当世代に起きたこと、そして起きていて気づかなかったこと、さらに、それがどういう影響をもたらしたか、ということを、ぼんやりと書いて行く、という体裁で述べられていきます。

なので、私と同じ世代や、それより上の世代は「あー、そんなこともあったなー」という感じで読むことができます。

たとえば。

クリスマスを恋人と過ごす習慣が根付いたり。
「一杯のかけそば」なんていうお話があったり。
年越しはディズニーランドで過ごすようになっていたり。
宮崎勤事件が起きていたり。
ポケベルから携帯電話になっていったり。

そういう80~90年代に発生した「事象」についてぼんやりと振り返りながら、一方では丁寧に当時の資料等を検証しながら「あの時代、流れとして振り返ったら、一体何が起きていたのか?」を解き明かすという仕組みになっています。

なので、それより若い世代の人が読むと「??」になってしまうことがあるかも知れません。
私も80~90年代と言えば、5才~24才に相当する年齢なので、90年代はまだしも、80年代の「若者」というのはいささか自分よりも年上の世代という感覚です。

80~90年代というのは、景気が最盛期にあって、あらゆるものがパッケージ化され「大人」が「若者」を消費の対象として取り込み始めた時代、という風に、本書では定義されています。クリスマスは恋人と二人でホテルで過ごそう!なんて象徴的ですね。私も高校生だかの頃に読んだ本で、クリスマスのホテルの予約は2年先だか3年先だかまで予約で埋まっている、なんて話があって「いやはや大人になるのは大変やなー」と思ったのを覚えています。
(もっとも自分たちが「若者」と呼ばれる世代には、バブルが崩壊した後だったので、そんなのはネタになってしまうわけなんですが・・)

表題となっている「若者殺しの時代」で「若者」とはどういう扱いをうけ、どう処理される仕組みが作られていったのか?そういったことが平行して紹介される、と言う形です。

肩肘張らずにニヤニヤしながら読めて、かつ、今置かれている状況がどういう状況なのか?を確認する意味でも面白いです。
「若者の~離れ」ってのは、この本を読めば、そりゃ離れるよな、という気分になりますね。


「若者を見殺しにする国」読書メモ

赤木智弘氏の「若者を見殺しにする国」読了&メモなど。


こう言ってなんですけれど、言っていることは当を得ている上に、それなりにうなづくこともあるにも関わらず、この著者にあまりシンパシーを感じないのは、なんなんだろう・・というか(笑)

著者は論座誌上に「希望は、戦争」と名付けられた論文を掲載し、いわゆる左系の文化人達を(比喩的な意味で)頬をはたき回ったという、なかなか楽しい人です。
「若い貧困層が、左翼に期待しない(いわゆる「右傾化」に走る)のは何故か?」というのは、困ったことに、この程度の文章を書く人に簡単に論破されてしまうような内容だったりするんですね。左系の人がどんな論陣を張ったところで、こんな言い方をしたら失礼ですが、赤木氏一人の雇用口さえ提示できない。こんな単純なことで、現実を見ずに理想を振りかざす左翼の欺瞞を指摘しています。

じゃぁ、右翼がいいのか?というと、そういう立場にも赤木氏は立たず、やれ右だ左だの論争とは違う方向に向かおうとするのですが・・。

まぁ、言わんとすることはわからないでもないというか、男女平等っていうのなら、主夫の地位向上を!というのは、それなりに正しい部分はあると思います。私自身もその考えがわからないのでもないと言いますか、さまよえるプログラマもどきとしては、個人的には、定職があってなきがごとき状態なので、ヒモとまで言わないにしても、主夫に近い状態になるかも知れんなぁ・・と感じたりもするもので(苦笑)

でもなんというか、私は別にキリスト教徒ではありませんが「神は自らを助くるものを助く」ではありませんが、どうもそういう風な意識が伝わってこず、氏については「本人が仕事をできないのは、仕事を任せたいと思われない何かがあるのでは?」という意地悪な事を考えてしまいます。
本書が書かれたのが2007年頃なので、その頃から比べると、著者はそれなりの論客として活動されているようなので(邪推すれば格差社会のロスジェネ代表みたいなポジションは確保できている様子なので)それなりに需要はあるところで、活動できているだなぁ・・と思うので、まぁ仕事はそれなりにあるんだ、なんて思ったりもします。

ただこの本の困ったところは、そういう著者についてシンパシーはあんまり感じないのですが、言っている内容は鋭いところをついていたりもします。
たとえば、大人が作った「若者」像に当てはめられて、ロスジェネ以降の世代はその型に嵌められて苦しんでいる、と言うところは、大体当たっているんじゃないか?と思います。

もっとも「大人の立場」で言えば、そんな型は勝手に作られたものなんだから破ればいいじゃない?という話なのかも知れませんが、実際のところ、型を破るのに挑んで失敗したら、本当に人生そのものが危ういという立場を間近に感じて居るのと、安易に煽るのとでは、違う立場にあるというのを考えながら「大人の立場」では読まないといけないかも知れません。

うーん、なんていうか、まとまりのない文章で恐縮です。


「艦これ」ではないけれど・・聯合艦隊に魅入られたひとりとして、取り上げずにはおれませんでした。

ふらふらっと本屋で立ち読みで「聯合艦隊軍艦銘銘伝」という書物を買いました。


昨今は某艦これのお陰か、軍艦モノに関する書物が割合目をひくようになっていて、艦これ以前から、小学生の頃は戦艦・金剛のプラモを作って従兄弟と遊んだり、パソコンを手に入れてからは光栄の「提督の決断」で愛好している、なんちゃって帝国海軍好きとしては、資料探しに苦労しないなぁと思うことが多くなりました。
もっとも、艦これの影響は、悪い方向にも働いているのか、粗悪な本も増えたような気もしないでもないのですが・・。

そんななかで、この本は600ページ及ぶ、厚さ3センチ程もある、まさしく「銘銘伝」。帝国海軍の軍艦が人物なら、まさしく人名辞典の決定版とでも言うべき名著と言えましょう。
元々は、この手の方面ではガチな雑誌で有名な「丸」誌の連載をまとめたものらしく、その中で紹介されている艦船の数は圧巻の自称860。聯合艦隊といいながら、ちゃっかり自衛隊の船舶についても紹介されていたり、連合艦隊では不遇に終わった「陸奥」についても、のちに原子力船の「むつ」として名前が使われていることなども紹介されています。
(自衛隊の艦ということでは、例えば漁船転覆事故で有名になってしまった潜水艦「なだしお」なども載っていますが、本稿執筆が古いためか、事故については触れられていません)
860とまで行かなくても、その半分の400でも、例のゲームで実装されたら・・・どうなることやら(汗)

この書籍の大本の著者は片桐大自氏(1927~1991)。1927年は昭和2年の生まれで、当然のように戦中を生き抜いた方で、本人は日本の軍艦設計の第一人者・平賀譲(戦艦大和を初め、多くの巡洋艦・駆逐艦の設計に携わった技師)に憧れ、学生時代に工廠で仕事をしながら造船技師を目指すも、成人するころに終戦。造船の夢を諦めた後は、日本の国語教育に携わった傍ら、膨大な海軍の艦船の資料の整理を行ったという人物です。
本業の国語教育(国語教科書の作成)でも実績を残した人物ですが、むしろこの「聯合艦隊軍艦銘銘伝」で評価される日がいずれくるかも知れません。

さて、今回この本の紹介の文章を書いたのは、軍艦への愛情の深さに加えて、さすが国語教科書を作ったという経歴が示す通りの片桐氏の文章の美しさ。これに尽きます。

日本の軍艦の名前は、大雑把に
・戦艦=旧国名(大和・武蔵..etc)もしくは山岳名(金剛・比叡..etc)
・巡洋艦=山岳名(重巡の場合。愛宕・高雄..etc)もしくは河川名(軽巡の場合。五十鈴・長良..etc)
・駆逐艦=気象など自然現象(吹雪・白雪・初雪..etc)
となっていますが、その名称に美しさについて氏は「詩情を感じる」と述べておられます。私もこれには同意です。
(欧米などは今でも艦船名に人名を使うことが多いですが、ださいなーと思いますもの。ちなみに日本の帝国海軍が人名を採用しなかったのは、明治天皇のご意向らしい。沈んだりしたら縁起悪い・・とかあるのかもですが、なんとなく肌感覚で理解できますね)
これに関しては、本書を立ち読みでもいいので目を通していただきたい!と思うのです。

帝国海軍と言えば大和と言う人も多いですが、通?としては長門が好きなので、長門の紹介をしているこの片桐氏の文章は心を静かに打ちます。
以下紹介文を引用。

長門(ながと)
 長門は現在の山口県北西部、長洲の名でよばれることが多く、薩摩とともに明治維新の志士を輩出した。
(中略)
 昭和二十年七月十八日、横須賀の小海岸壁で米高速機動部隊約三〇〇機の空襲を受け、被弾二発、艦長・副長が戦死した。しかし、艦隊は中破程度で終戦を迎えた。
 終戦時に生き残った唯一の戦艦であり、開戦時の聯合艦隊旗艦だけが最後に残ったことは感無量である。
 だが、敗戦の現実は冷厳であった。
「長門」は戦利艦として連合軍に接収され、アメリカ海軍に引き渡された。そして翌二十一年七月二十五日、ビキニ環礁における原爆実験に供せられたのである。それは、アメリカが帝国海軍そのものに課した処断を象徴するかのようであった。
「長門」の最期を飾るせめてもの慰めは、同じ実験に供せられたアメリカの戦艦「アーカンソー」は轟沈、空母「サラトガ」も瞬時にして大破したのに対し、四日間も浮き続け、日本の造艦技術の優秀さを身をもって示したことである。
 しかし、五日間(七月二十九日)の朝、「長門」は忽然として姿を消していた。巨像がその臨終の姿を何びとにも見せないのにも似た、雄艦の臨終であった……。
 願わくばその悲痛な最期が、二十一年前に同じく実弾標的として土佐沖に沈んだ僚艦「土佐」について言われたごとく「『長門』の寂滅こそ世界平和を意味するもの」であってほしい。その在世時の栄光のゆえに……。



艦これが流行っているのは、そういう潜在層もあったというのもあるのでしょうが(開発者の方も相当なミリオタらしいので)なんとなく儚げな印象が、いつまでも連合艦隊に付き纏うんですよね。


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佐倉純

Author:佐倉純
日本と桜の花と寝台特急「さくら」をこよなく愛する、そして最近カメラに目覚めたのんきなプログラマ。
日本の事を憂いてみたり、日々思ったことをまとめて、綴ったりしています。その合間に写真も撮っています。
時々子供のネタなんかも。

ぜひゆっくりご覧ください。


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