さくらのみや日記

さくらと日本と鉄道好きな、野良プログラマのブログ。

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おきてがみ

「若者殺しの時代」読書メモ

先に取り上げた、赤木智弘氏の「若者を見殺しにする国」の中でも、再三再四紹介される、堀井憲一郎氏の著作。この書を下書きに、赤木氏の作品は書かれてように感じるくらいに、本作は実に面白い作品、という風に感じました。



作者の堀井氏は、調べて見たところ、1958年生まれ。私のような1975年生まれから見ると、17歳差で、0.5世代くらい上の感覚という風なところでしょうか。(赤木智弘氏は1975年生まれ。誕生日まで考慮すると、私の1ヶ月後くらいの生まれのようです)
ここで、堀井氏の作品と、赤木氏の作品を読む上で「属する世代」というのは、とても重要な要素になります。
堀井氏の著作の中で出てくる「若者」という世代は一体いつの世代を指しているのか?とても重要な要素なのですね。

本書では、堀井氏自身が「若者」だった世代について、すなわち、1980年代を中心に回顧をする、という形式で、当世代に起きたこと、そして起きていて気づかなかったこと、さらに、それがどういう影響をもたらしたか、ということを、ぼんやりと書いて行く、という体裁で述べられていきます。

なので、私と同じ世代や、それより上の世代は「あー、そんなこともあったなー」という感じで読むことができます。

たとえば。

クリスマスを恋人と過ごす習慣が根付いたり。
「一杯のかけそば」なんていうお話があったり。
年越しはディズニーランドで過ごすようになっていたり。
宮崎勤事件が起きていたり。
ポケベルから携帯電話になっていったり。

そういう80~90年代に発生した「事象」についてぼんやりと振り返りながら、一方では丁寧に当時の資料等を検証しながら「あの時代、流れとして振り返ったら、一体何が起きていたのか?」を解き明かすという仕組みになっています。

なので、それより若い世代の人が読むと「??」になってしまうことがあるかも知れません。
私も80~90年代と言えば、5才~24才に相当する年齢なので、90年代はまだしも、80年代の「若者」というのはいささか自分よりも年上の世代という感覚です。

80~90年代というのは、景気が最盛期にあって、あらゆるものがパッケージ化され「大人」が「若者」を消費の対象として取り込み始めた時代、という風に、本書では定義されています。クリスマスは恋人と二人でホテルで過ごそう!なんて象徴的ですね。私も高校生だかの頃に読んだ本で、クリスマスのホテルの予約は2年先だか3年先だかまで予約で埋まっている、なんて話があって「いやはや大人になるのは大変やなー」と思ったのを覚えています。
(もっとも自分たちが「若者」と呼ばれる世代には、バブルが崩壊した後だったので、そんなのはネタになってしまうわけなんですが・・)

表題となっている「若者殺しの時代」で「若者」とはどういう扱いをうけ、どう処理される仕組みが作られていったのか?そういったことが平行して紹介される、と言う形です。

肩肘張らずにニヤニヤしながら読めて、かつ、今置かれている状況がどういう状況なのか?を確認する意味でも面白いです。
「若者の~離れ」ってのは、この本を読めば、そりゃ離れるよな、という気分になりますね。

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おきてがみ

「若者を見殺しにする国」読書メモ

赤木智弘氏の「若者を見殺しにする国」読了&メモなど。


こう言ってなんですけれど、言っていることは当を得ている上に、それなりにうなづくこともあるにも関わらず、この著者にあまりシンパシーを感じないのは、なんなんだろう・・というか(笑)

著者は論座誌上に「希望は、戦争」と名付けられた論文を掲載し、いわゆる左系の文化人達を(比喩的な意味で)頬をはたき回ったという、なかなか楽しい人です。
「若い貧困層が、左翼に期待しない(いわゆる「右傾化」に走る)のは何故か?」というのは、困ったことに、この程度の文章を書く人に簡単に論破されてしまうような内容だったりするんですね。左系の人がどんな論陣を張ったところで、こんな言い方をしたら失礼ですが、赤木氏一人の雇用口さえ提示できない。こんな単純なことで、現実を見ずに理想を振りかざす左翼の欺瞞を指摘しています。

じゃぁ、右翼がいいのか?というと、そういう立場にも赤木氏は立たず、やれ右だ左だの論争とは違う方向に向かおうとするのですが・・。

まぁ、言わんとすることはわからないでもないというか、男女平等っていうのなら、主夫の地位向上を!というのは、それなりに正しい部分はあると思います。私自身もその考えがわからないのでもないと言いますか、さまよえるプログラマもどきとしては、個人的には、定職があってなきがごとき状態なので、ヒモとまで言わないにしても、主夫に近い状態になるかも知れんなぁ・・と感じたりもするもので(苦笑)

でもなんというか、私は別にキリスト教徒ではありませんが「神は自らを助くるものを助く」ではありませんが、どうもそういう風な意識が伝わってこず、氏については「本人が仕事をできないのは、仕事を任せたいと思われない何かがあるのでは?」という意地悪な事を考えてしまいます。
本書が書かれたのが2007年頃なので、その頃から比べると、著者はそれなりの論客として活動されているようなので(邪推すれば格差社会のロスジェネ代表みたいなポジションは確保できている様子なので)それなりに需要はあるところで、活動できているだなぁ・・と思うので、まぁ仕事はそれなりにあるんだ、なんて思ったりもします。

ただこの本の困ったところは、そういう著者についてシンパシーはあんまり感じないのですが、言っている内容は鋭いところをついていたりもします。
たとえば、大人が作った「若者」像に当てはめられて、ロスジェネ以降の世代はその型に嵌められて苦しんでいる、と言うところは、大体当たっているんじゃないか?と思います。

もっとも「大人の立場」で言えば、そんな型は勝手に作られたものなんだから破ればいいじゃない?という話なのかも知れませんが、実際のところ、型を破るのに挑んで失敗したら、本当に人生そのものが危ういという立場を間近に感じて居るのと、安易に煽るのとでは、違う立場にあるというのを考えながら「大人の立場」では読まないといけないかも知れません。

うーん、なんていうか、まとまりのない文章で恐縮です。

おきてがみ

「艦これ」ではないけれど・・聯合艦隊に魅入られたひとりとして、取り上げずにはおれませんでした。

ふらふらっと本屋で立ち読みで「聯合艦隊軍艦銘銘伝」という書物を買いました。


昨今は某艦これのお陰か、軍艦モノに関する書物が割合目をひくようになっていて、艦これ以前から、小学生の頃は戦艦・金剛のプラモを作って従兄弟と遊んだり、パソコンを手に入れてからは光栄の「提督の決断」で愛好している、なんちゃって帝国海軍好きとしては、資料探しに苦労しないなぁと思うことが多くなりました。
もっとも、艦これの影響は、悪い方向にも働いているのか、粗悪な本も増えたような気もしないでもないのですが・・。

そんななかで、この本は600ページ及ぶ、厚さ3センチ程もある、まさしく「銘銘伝」。帝国海軍の軍艦が人物なら、まさしく人名辞典の決定版とでも言うべき名著と言えましょう。
元々は、この手の方面ではガチな雑誌で有名な「丸」誌の連載をまとめたものらしく、その中で紹介されている艦船の数は圧巻の自称860。聯合艦隊といいながら、ちゃっかり自衛隊の船舶についても紹介されていたり、連合艦隊では不遇に終わった「陸奥」についても、のちに原子力船の「むつ」として名前が使われていることなども紹介されています。
(自衛隊の艦ということでは、例えば漁船転覆事故で有名になってしまった潜水艦「なだしお」なども載っていますが、本稿執筆が古いためか、事故については触れられていません)
860とまで行かなくても、その半分の400でも、例のゲームで実装されたら・・・どうなることやら(汗)

この書籍の大本の著者は片桐大自氏(1927~1991)。1927年は昭和2年の生まれで、当然のように戦中を生き抜いた方で、本人は日本の軍艦設計の第一人者・平賀譲(戦艦大和を初め、多くの巡洋艦・駆逐艦の設計に携わった造船技師の第一人者)に憧れ、学生時代に工廠で仕事をしながら造船技師を目指すも、成人するころに終戦。造船の夢を諦めた後は、日本の国語教育に携わった傍ら、膨大な海軍の艦船の資料の整理を行ったという人物です。
本業の国語教育(国語教科書の作成)でも実績を残した人物ですが、むしろこの「聯合艦隊軍艦銘銘伝」で評価される日がいずれくるかも知れません。

さて、今回この本を多くの文章を書いたのは、軍艦への愛情の深さに加えて、さすが国語教科書を作ったという経歴が示す通りの片桐氏の文章の美しさ。これに尽きます。

日本の軍艦の名前は、大雑把に
・戦艦=旧国名(大和・武蔵..etc)もしくは山岳名(金剛・比叡..etc)
・巡洋艦=山岳名(重巡の場合。愛宕・高雄..etc)もしくは河川名(軽巡の場合。五十鈴・長良..etc)
・駆逐艦=気象など自然現象(吹雪・白雪・初雪..etc)
となっていますが、その名称に美しさについて氏は「詩情を感じる」と述べておられます。私もこれには同意です。
(欧米などは今でも艦船名に人名を使うことが多いですが、ださいなーと思いますもの。ちなみに日本の帝国海軍が人名を採用しなかったのは、明治天皇ご意向らしい)
これに関しては、本書を立ち読みでもいいので目を通していただきたい!と思うのです。

帝国海軍と言えば大和と言う人も多いですが、通?としては長門が好きなので、長門の紹介をしているこの片桐氏の文章は心を静かに打ちます。
以下引用。

長門(ながと)
 長門は現在の山口県北西部、長洲の名でよばれることが多く、薩摩とともに明治維新の志士を輩出した。
(中略)
 昭和二十年七月十八日、横須賀の小海岸壁で米高速機動部隊約三〇〇機の空襲を受け、被弾二発、艦長・副長が戦死した。しかし、艦隊は中破程度で終戦を迎えた。
 終戦時に生き残った唯一の戦艦であり、開戦時の聯合艦隊旗艦だけが最後に残ったことは感無量である。
 だが、敗戦の現実は冷厳であった。
「長門」は戦利艦として連合軍に接収され、アメリカ海軍に引き渡された。そして翌二十一年七月二十五日、ビキニ環礁における原爆実験に供せられたのである。それは、アメリカが帝国海軍そのものに課した処断を象徴するかのようであった。
「長門」の最期を飾るせめてもの慰めは、同じ実験に供せられたアメリカの戦艦「アーカンソー」は轟沈、空母「サラトガ」も瞬時にして大破したのに対し、四日間も浮き続け、日本の造艦技術の優秀さを身をもって示したことである。
 しかし、五日間(七月二十九日)の朝、「長門」は忽然として姿を消していた。巨像がその臨終の姿を何びとにも見せないのにも似た、雄艦の臨終であった……。
 願わくばその悲痛な最期が、二十一年前に同じく実弾標的として土佐沖に沈んだ僚艦「土佐」について言われたごとく「『長門』の寂滅こそ世界平和を意味するもの」であってほしい。その在世時の栄光のゆえに……。



艦これが流行っているのは、そういう潜在層もあったというのもあるのでしょうが(開発者の方も相当なミリオタらしいので)なんとなく儚げな印象が、いつまでも連合艦隊に付き纏うんですよね。

おきてがみ

「乙女戦争」のレビュー

昨日のレビューに続いて、2作目です。
近所にあるアニメイトで見つけた作品なんですが、元々はアニメイトで、森薫さんの「乙嫁物語(6)」を買いに行って、表紙が目に付いたので買ってみた作品です。
ちなみに、Amazonのいわゆるお勧め商品と言いますか、「これを買った人はこんなのも買っています」のところで、乙嫁のページを見ると、この「乙女戦争」もお勧めされます。大体客層がかぶるんでしょうなぁ(苦笑)




で、中身ですが、唐突に大文字で語りますが

タイトルが「乙女戦争」なのに、乙女じゃなくなるよ!(性的な意味で)

乙嫁の件でもそうなんですけれど、いわゆる「戦う女の子」物ですね。
この「戦う女の子」系統は
1.「トゥーム・レイダー」のララ・クロフトの様な「ムキムキマッチョのアマゾネス」系
  (ララ・クロフトを存じない方の為に、喩えとしてわかりやすく「なでしこジャパンの澤兄貴系」とします。「吉田沙保里兄貴系」でもいいです。イメージですよ。イメージ!)


2.ジャンヌ・ダルクのような可憐な乙女が非力ながらも必死に頑張る系
  (ジャンヌダルクが実際はどんな女性だったかわからないので、1と同じスポーツ界に喩えるなら「浅田真央系」「高梨沙羅系」とでもしておきます。これもイメージですよ!)


とあるようで、これは後者に属します。
(この分類をしていて、ちょっと気づいたことがあるので、別メモを書いてみたいと思います)



正直、表紙を見ただけでは「ジャンヌ・ダルクが主役?」と思ったのですが、違っていて、15世紀にボヘミア・ポーランド(現チェコ)で起きたフス戦争と呼ばれる宗教戦争を題材にした作品です。
(私も不勉強でフス戦争という言葉は知りませんでした。)

で、冒頭のいきなり「乙女じゃなくなるよ!」なんて書いちゃいましたけど、主人公の少女・シャールカは、

十字軍気取りのキリスト教騎士団に住んでいる村を襲われる。

村の人みんな捕まる

(シャールカ含め)女の子みんな騎士に陵辱される。シャールカ処女喪失。

陵辱された女の子はみんな死ぬ(シャールカだけ気絶だけで運良く生き残る)

暴行時の破瓜の気絶から目が覚めたら、村人がみんな吊り殺されていた

という、四球・四球・四球・満塁ホームランを浴びた阪神・岩田投手のような開幕スタートで始まります。
(岩田投手に対して悪意はありませんが、イメージです。イメージですよ!

そんな感じの開幕ダッシュなんですが、興味があるのは、そんないきなり絶体絶命な主人公を拾ったヤン・ジシュカという隻眼の傭兵隊長がいるのですが、この人、実在の人物なんですよね。
そのジシュカの部隊に参加して、シャールカは敵討ちの為に戦場に立つ、というのがストーリーの本筋です。

フス戦争において、歴史上のヤン・ジシュカは、フス派と呼ばれるプロテスタントの一部に味方し、十字軍や神聖ローマ帝国などの、外部からのカトリック勢力と争い、何度もカソリック勢力を追い払ったことで、ボヘミアの英雄として扱われている人物です。
この人物の注目すべき点は、そういう年表的な歴史での業績とは別に、西洋で本格的にマスケット銃、要するに鉄砲を実戦で用いたということで、この「乙女戦争」の作品の中でも、ジシュカがシャールカに「笛(ピーシュチャラ:ピストルの語源)を授ける」という台詞が印象的に描かれます。

この辺りは、日本の戦国時代「やあやあ我こそは」と名乗っていた武田軍の武士を、農民兵が鉄砲でバンバン倒していく「長篠の戦い」の織田信長のような人物を想像させます。

実際、信長とよく似て居るなぁと感じる部分が他にもあって、ヤン・ジシュカという人物も全く穏やかではなく、理想主義を貫くような正義漢ではなく、たとえばシャールカの可憐な容姿・神聖性を逆手に利用して、フス派の何も知らない盲信的な信者達を狂戦士に仕向けたりするシーンがあったりするなど、バンバンと汚い手を使うというような事もしていきます。

私は、こういうピカレスクは大好きなんです(笑)

余談ながら、枕で述べた「乙嫁物語」の乙女のアミルさんは、既婚者なんだけど未だに乙女のような気がしてならない・・性的な意味で。

おきてがみ

「私という猫」のレビュー

少し暇が出来たので、しばし書き物を。

というわけで「私という猫」についてのレビューです。




二つ紹介していますが、上の「私という猫」が、巻数で言えば1巻、下の「私という猫 -呼び声-」と副題のついているものが、巻数で言えば2巻に相当します。

さて、世の中に猫を題材にした小説やマンガは、ご存じ夏目漱石を筆頭にたくさんありますが、この2篇と、そしてこれを書き上げたイシデ電という人は「凄い!」の一言しかありません。

猫を題材にした作品というのはどうしても猫を「かわいい物」という、人間から見た愛玩動物としての側面を描くことになります。なので必然的に「癒される」とか「ほっこりする」という印象になります。読んでて幸せな物になるというのが多いと思うんですよ(適当に主観で書いてます)

ところでこの「私という猫」については、これは猫が好きな人が読むと、大きく評価が分かれると思います。私のように圧倒されて息を呑んでしまうか、嫌悪感で燃やしたくなるか(笑)

内容をさらっとネタバレにならない程度に書きますと、「私」という自称で称される一匹のメス猫の視点で物語は描かれるのですが、「私」やその周辺の猫たちは、いわゆる野良猫として描かれています。
「私」は群れるのが嫌いだが、猫は群れていないと生きていけない。「私」も餌にありつくにも群れからつかず離れずマイペースで、時に面倒を起こしたり楽しんだりしながら、それでも飄々と生きていく様を描きます。
前巻のハイライトは、そんな群れの中で「ボス」と呼ばれる群れのボスの活躍と生き様が描かれます。
この巻については、ボスの人生(猫生?)とその周辺の野良猫たちの力強い生き様に、人間社会のそれを重ね合わせて共感して読むこともできるので、普通の人でも受け入れることは難しくないと思います。

圧巻なのは後巻に当たる「-呼び声-」篇です。
ボス亡きあとの群れたちは、次第に色々な形で野良猫としての凄惨な人生(猫生?)を送ることになります。
餌を十分に確保できずひっそりと死んでいく猫、人間に駆除されていく猫・・・。
主役の「私」もあるときに、自らのミスで人間に捕まり、人間に「害敵」としてある悲惨な目にあってしまう。。。

---

私が思うに、猫を心底愛している人は、この作品を好意的に受け入れられると思いますし、単に「猫好き」なだけの人は、えげつない作品という感情だけが残ると思います。一種のリトマス試験紙、猫好きに対する踏み絵的な作品です。

後半の「-呼び声-」篇は、特別に悲惨な表現はなく「現実はこうだよ」と提示しているだけなのに、どうしてここまで凄惨に感じるのか。私が感じるのは、人間社会も一皮むけば変わらないよ、と感じるからかも知れません。

この「私」の世界観では、野良猫だけではなくて、人間に飼われている猫も出てきて「飼われ」という形で少し蔑んだ表現で呼ばれたりもしているのですが「与えられるだけで何もしないで温々と餌がもらえる幸運」な猫たちが、他の猫を題材としたマンガや小説でキャッキャウフフと持て囃されて扱われているのならば、その戸板一枚めくると、野良猫たちの凄惨な生存競争が行われている、そういう姿を忘れるなよというメッセージのようなものを、私などは感じる次第です。

前巻はなかなか入手しづらいのですが、後巻だけでも楽しめる作品ですので、全然癒されない猫マンガ(笑)お勧めです。


おまけ
違う意味でホラーのようなギャグのような猫マンガ、伊藤潤二の「よん&むー」です。

犬派の岐阜県在住某漫画家J氏が、結婚して猫派の奥さんに押し切られて猫を飼い始めた時の実体験?のようです。
絵はホラー調ですが、中身はギャグですよ。お口直しにどうぞ。

おきてがみ

「幼年期の終わり」読みました。

冷戦の時代、今まさに人類が宇宙に飛び立たんとするそのとき「オーバーロード」と呼ばれる宇宙からの生命体によって、地球は「観察」を始められることになる・・・。
個人的にSFも翻訳物も苦手なので普段なら読む機会がなかったであろう本ですが、何かのレビューで気になって読み始めました。

SFは確かにSFなんですが、地球に対して特に目立って何をするでもなく、たまに干渉をする。果たしてオーバーロードの目的は何か?SFというよりも謎解きの気分で読みました。
人類よりもはるかに長い世代を生きるオーバーロードたちが地球に対して人類に対して期待したこと、そして得たこと、そして最期に残された一人の人物が見た最期の瞬間。そしてまた人類を支配していたかに見えるオーバーロードの苦悶。サイエンス・フィクションの枠を超えて、非常に哲学的な内容を含んでいるところに、作者の知識の深さを感じます。

随所に見せる、地球人が宇宙への旅立ちを諦めさせられた後と、「様々な政治形態から解放された」後に見せる余興というのが気になりますね。半世紀前に書かれた小説の割に、読んでいてあんまり違和感がないところがかえって気持ち悪いですね。どこかにオーバーロードはいるのかも。

オーバーロードについては、一体何を考えて、なんのために活動しているのか?という謎は残るのですが、ここは読者が自由に想像できる方が、面白いと思います。




おきてがみ

山本七平「空気の研究」読了です。

やっと読了。読むこと自体はそんなに難しくない本なのだが、感想を書くとなると途端に難しくなる。
ここでいう空気は「空気を読め」の空気。山本七平の時代よりも「空気」という謎の存在の強さは影響力を増しているのもあり、興味を持って読みました。

内容はそんなに難しくなく、西欧、特に山本氏自身がキリスト教徒でもあったことから、ユダヤ教文化と日本の汎神論を背景とした文化の違いから読み解き、西欧にもそういう「空気」的なものはあることを挙げながら、同時にそれと真正面から対峙し、それの影響力を受けないように徹底して文化を築いてきた。それが科学であり契約社会的な真実を間に受けることを選択したのに対し、日本は臨在的感覚こそを、第一義とするところにある。では臨在的感覚とはなにか・・という形で話は進んでいきます。

話の合間に時代背景を扱った物、本書の中ではイタイイタイ病とカドミウムの関係で、カドミウムそのものはタダの金属なので手で触れても大丈夫という「科学的正論」と、カドミウムと聞くだけで発狂しそうな「空気的存在」。この辺りの対比は今まさに原発の賛成派(含む漸減派)と即時廃止派の図式を現代だと想定して読めば非常に楽しめることと思います。

他に個人的に面白かったことは、若干イデオロギーに関することですが、自由の問題についてですね。
戦後アメリカから輸入された民主主義や自由について山本氏の指摘がするどく「自由なんて物がもし本当の意味で日本に定着していれば、日本人は再び皇室を中心とした家父長制度によるを自らの意志で作り上げるだろう。それを戦前続けていた日本人を自由にしたら、そういうシステムを作るのは自明の理」とまで書いていて、確かにそうだわなーと思い至ったこと。
そして「革新は急進だと保守主義を否定して社会主義や共産主義を進めようとする連中がいるが、その「やり方」はこの国の空気の醸成のシステムを考えると、極めて保守的な手法で主張するしかない」とも指摘しています。

こういう形で、世俗レベルで、政治的な問題のレベルで、宗教的なレベルで、手を変え品を変え「空気」の問題に螺旋状に回転しながら切り込んでいくところは、読みづらくもあり、またダイナミックでもあり、はっと気づかされることもあり。最後に落ち着くところで謎が解けるところも含めて、最初は難しい部分もありますが、楽しんで読むことができました。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
(1983/10)
山本 七平

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おきてがみ

「平家の群像」読書感想文

「平家物語」と言っても主な登場人物って言っても数えるほどしかほとんど思い出せず、清盛は悪いやっちゃ、てな感じしかわからないのが多くで、詳しい人な ら、常磐御前という別嬪さんがおったとか、義経の鵯越の話だとか、那須与一の扇落としとか、そういった断片的な知識でつなぎ合わせ、最期は壇ノ浦で終わ り、というのが多くの人の印象だと思います(私の知識もそんなもんです)

そういう物語上の平氏の一族の群像を解体し、当時の貴族が書いた他の資料などを元に再構成し、史実としての平氏、物語に描かれた平氏の姿を浮かび上がらせるというのが本書の位置づけと思われます。

本書で主役となるのは、清盛ではなく、その次世代を背負った若い公達たち。長子重盛、三男宗盛、四男知盛と、重盛の長子維盛と言った、栄枯盛衰を両方経験 した世代にスポットをあてて解説を行います。(清盛に関しては栄華を極めて凋落寸前で病死してしまうので、ある意味、幸せな人という解釈もできなくもな い)

本書では特に、清盛からみて直系の孫にあたる維盛と、五男重衝という二人の過小評価されている人物を取り上げています。

これはこういう王朝交代ものではあることですが、勝者である源氏に都合よく書かれている部分もあり、史実と実際とはかなりゆがめられた人物像というのが描かれますが、そういうところを丁寧に描いています。

「平家物語」の中では、ある意味お約束として「清盛=横暴な棟梁」「重盛=親父を諫める善人」として描かれるシーンがあります。頼朝・義経の対比と近いも のがあるかも知れません。(重盛という人は心配りの出来る人であった反面陰湿な人だったというのが記録に残っております)

平家物語がまとめられたであろう後世の感覚からは「重盛という常識人のいうことを聞かない清盛」を描き、その重盛が清盛よりも先に亡くなってしまうことで「人徳者であった重盛を失ったことで平家に陰りが見えた」というストーリーを作ろうとする。

「平家物語」の編者(特に誰と決まっているわけではないのだが)が取った善悪を強調することによって「もののあはれ」を表現するその手法に、筆者は賛否両論を交えつつ評価を下しています。

まさしく判官贔屓という言葉は義経のみならず、平家の中でも比較的報われない人、夭折した人に善玉としての役割を与えたりする場面もありながら、筆者はそ れを批判するわけではなく、物語としてそういう形を取ることで、平家の「諸行無常」を表現している、そこに対しては、歴史家ではなく、一文学者としての評 価も下しているところは、ただの歴史家ではできない芸当と言えるでしょう。

まだまだこの分野ではわからないことも多く、他の平家の公達や、御家人郎党レベルになると謎だらけです。まだまだ読み解く材料はありそうです。

余談ながら、平家物語の時代というのは、それより先に生まれた「源氏物語」が描く王朝絵巻というのがかなり影響しているというのがわかります。維盛が「光 源氏の再来」と言われたりするのも、源氏物語がその時代の文化人の教養として根付いていたからこそ成り立つ比喩ですから。



おきてがみ

アンチキリスト読み。で、いつ終わるんだか・・・。

足が痛いので、仕事を定時で切り上げて接骨院にいったら、いきなり痛み止めの筋肉注射を打たれたでござる。

注射が一番痛いよ!

てな感じでしたが明日までに少しでも治っていたらいいなぁ。

最近はニーチェの「アンチキリスト」読み。元々他の著作に関しても、何と戦ってるんすか?状態のニーチェ先生ですが、アンチキリストに関しては、批判対象がキリスト教とそれにまつわるモノと限定的になんているだけに、舌鋒はするどいというか、ビシビシ笑いながら読める。それは自分がキリスト教とあんまり無縁の生活をおくっている他人事だからなんだろうなぁ。

「生命が誕生したり死んでいったり、人間にとって普通の当たり前のことを、わざわざ神聖なものと祭り上げ、権威付けに利用している」

なんてのを読むと、人間にとって死は必然で輪廻転生の通過点の一部と規定する仏教の考え方の方が、まだすっきりすると、ニーチェは仏教的な考え方の方を好んでいた感じはするんですよね~。

そして色々書こうと思っていたことを忘れていたり。まだまだ、自分の頭の中では熟成段階にあるような気がしますね。

おきてがみ

吉川英治を昔読んだ思い出

吉川英治の「私本・太平記」を大人買い。全8巻ですがamazonで1円だったので全部で8円でした。

送料の方が高いw

そして何故コレを買ったのか自分でもイマイチわからないw

吉川英治作品に最初に出会ったのは「三国志」。小学生だった僕が児童文学向けに書かれたそれを読んでいたのを、近所のおじさんが「これに挑戦してみぃ!」とよこしてきたのが吉川三国志でした。

今の吉川英治作品は文庫になっていますが、当時は函入りというので、分厚いのが全三巻、おそるおそる読んだのを覚えて居ます。

正直三国志は今みたいに資料がない時代に読んだので、あまりの登場人物の多さに「誰やねん」状態が続くのですが、劉備・関羽・張飛の三人を中心に、そして諸葛孔明を加えた、少し古いながらも、蜀を正統とする日本人の三国志感を最初に植え付けた傑作となっていることは言うまでもありません。(少々時代背景的なことを言えば、吉川三国志が書かれたのは戦中なことも踏まえ、皇統の正当性と言った観点から非常に敏感な問題であった可能性もあると思われる)おそらく日本人の三国志は、吉川英治が作ったと言ってもいいと思います。

閑話休題

で、吉川作品は実はこの時に大好きになりました。50年前の大衆作家なんですが、文章が非常に読みやすいことに加え、読みやすいながらに非常に高尚な文章を書くことができる作家で、この絶妙のバランス感覚にしびれてしまい「こんな綺麗な日本語で大衆小説が書ける人がいるのか!」と小学生の頃に感動した記憶があります。

以後は、私の両親の実家が、剣豪・宮本武蔵の生家が近くにあることもあり、吉川版武蔵も読みましたし、三国志の流れで新・水滸伝や、オリジナルの鳴門秘帖なども読んだ記憶があります。

さて、その吉川作品ですが、高尚という表現よりも、僕自身として「実に艶のある文章を書く」という印象があります。特に女性の描写が美しい。

三国志の中では、作品の早めに登場する印象的な芙蓉姫、そして、三国志一の傾国・蛁蝉と、今のようなビジュアルで訴える資料の無い時代には、想像をたくましくするには十分なものがあります。新・水滸伝に出てくる女将軍、一丈青・扈三娘の登場シーンなんてのは

「涼霄の花も恥ずらん色なまめかしい粧いだった。髪匂やかに、黄金の兜巾簪でくくり締め、鬢には一対の翡翠の蝉を止めている。踏まえた宝鐙には、珠をちらし、着たるは紅紗の袍で、下に白銀の鎖かたびらを重ね、縫の帯、そしてその繊手は、馬上、右と左とに抜き払った日月の双刀を持っているのであった」
(吉川英治「新・水滸傳」より)

なんて文章が新聞連載小説ですらすらと書ける文筆家なんて羨ましくてしょうがないです。余談ながら、一丈青はこの後、梁山泊の林冲に生け捕りにされるシーンがありますが、ちょっとだけエロい雰囲気があったりしますw

で、吉川作品で僕が特別印象深いのは、別に今年だから取り上げるわけではないので、新・平家物語です。

新・平家物語はちょっと変わった作風で、清盛や義経が主役というよりは、京都の町に住む庶民達が合間合間に世情を語るようなシーンもあって、少し変わった印象があります。この作品は中学の図書委員をやっている時に、図書館の奥で見つけて読んでいたのですが「清盛が常磐御前をレイープするシーン」というのを見つけてしまい、当時厨房の僕は大興奮しながら読んだ記憶があります(笑)

平家物語で一番泣けるのは、鬼界が島のシーンですね。アレは吉川版の文章で是非読んで欲しい。マジおすすめ。

おきてがみ

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Author:佐倉純
日本と桜の花と寝台特急「さくら」をこよなく愛する、そして最近カメラに目覚めたのんきなエンジニア。
日本の事を憂いてみたり、日々思ったことをまとめて、綴ったりしています。その合間に写真も撮っています。
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