うつではないけれど
むう。今朝は朝から気分悪いことが多かったですね。
体調管理は大事だ・・・。 仕事行く前に、そういう吐き気をもよおしてしまって、危うく休みそうになってしまったのですが・・。 今は立場的にも、なかなか簡単に仕事を休むというわけにもいかず。 自分としては物事を悲観的に考えるタチなのですが、その悲観論的なところを 「仕事に行くしんどさ」ではなくて 「仕事を休んでしまった場合に生じるデメリット」に結びつけることで、なんていうか、競走馬のブリンカーのように走っている感じですね。 あんまりいい精神状態じゃないなぁ。。。 自分だけがそうなのか、みんなそうなのか。果たしてよくわからなくなることがあります。 |
うつにまつわるエトセトラ ?回目
昔はそういうタイトルで、一体うつ病とはなにか?というようなことを書いていた気がします。
ただ、それはそれで自分の中で色々考えたり、見直したりする契機になって、ためになった部分もあるのですが。。。 最近はそういうことをあんまり考えないようにすることが多くなりました。 自分の記憶の上書きをするわけではないのですが、かといって、避けようとするわけでもなく。 今までも頭の中で、何度も「この病気は無理に治そうと思わず、一生付き合いかな」くらいに感じていたのですが、そこは頭の中でそうは思っていても、身体がそうは思っていなかった、ということなのかもしれません。 それが最近はやっと心身で一致してきたのでしょうか。 結局の所、今まで色々回り道をしていたような、そんな気もするのですが、その遠回りは、それはそれで人生の中で、意味があることだったのかなぁ・・と思うのですが、それにしては、失ったものがたくさんあるような、そんな気がします。特に仕事関係。これが辛い(苦笑) |
正念場
自分の私生活のことなんですけれど、今は実に正念場という感じ。
今年はそう感じることが多い。 ただ、充実しているという風に感じることも同時にある。 不安はある。悩みは常に湧いてくる。不満もどこかで湧いてくる。でも迷いはそんなにない。 仕事に関して、そんな感じです。 |
半年の壁
半年目の壁っていう奴でしょうか。
仕事で少しずつ裁量の範囲が広くなってくると、どんどんしんどくなる・・。 というわけで、今週は月曜日に頼まれ事を課長さんにされてから、それがプレッシャーになってか、火曜・(文化の日)・木曜と3連休中です。 業務としては、仕事の無駄の見直しというので、後輩たちの職場のメンバーに面談をして回るのと、その質問内容や日程を考えて、考察をするというもの。 火曜日はそんなわけで、午後からですがカウンセリングを受けにセンターに顔を出していました。 カウンセラー曰く 「与えられた仕事を失敗したらダメ、うまくやろうとするからプレッシャーになるんです」 「後輩に指示をしてあれしてこれして・・というのは苦手かも知れないけど、それは仕事だから心を鬼にしてやらないと」てなこと。 う~ん、昔からですが、後輩に指示を出して、いわゆる「仕事をさせる」「仕事を頼む」っていうのができない。 まぁそういうのができないから鬱になるんでしょうね(笑) そういうのがダメってのはなんなんだろう?人に物を頼んだり「自分のために時間を割いてもらう」=「面倒を頼む」=「自分が嫌われるんじゃないか?」的な心理からきているのかなぁ。なんか小さい頃にトラウマでもあるのかも。 今日も休みます電話を職場に入れたら、課長さんが心配して聞いてくれたので、かくかくしかじかで不安になってるんです、的な事を言ったら、明日時間を割いて話を聴いてもらえそうなので、まだまだ完調にはほど遠いながらも、上司に相談できるようになったのは、プラスの点かな。 |
リズム障害?
今日は通院だったんで、朝はゆっくり目に出て病院に。
でも、そこまで行くまでの行程が眠い眠い眠い。家を出てバスに乗って電車に乗ってバスに乗って・・とほとんど無意識のまま移動したって感じ。 完全に睡眠の時間帯なんですよね。 診察終わって薬を待つ時間も眠い眠い眠い。薬をもらって職場に移動するまでの電車の中でも眠い眠い眠い。 結局すっと目が覚めたのは勤務地近くの長岡京駅の近く。 この状況にまで眠いってのは、考えられることは一つ。リズム障害。 明らかに睡眠時間帯なんですよね。 主治医に相談すると、パキシルとかデパケンRとかの影響かも・・・と。デパケンはとめれそうだけど、パキシルは副作用が辛いのでやめられず。 そんなのをずらそうと、眠剤を飲むのをやめてみたり、いろいろ試し中。。。 仕事中に寝てしまうなんて論外!とは思うんですが、 眠剤を飲む→次の日の朝も眠気から逃れられない 眠剤を飲まない→朝4時頃まで眠れず、職場で眠気から逃れられない なので、果たしてどうしたものか。 眠る時間帯が、23~6時ときっちり固定されていたら、そんなことにはならないんでしょうけどねぇ。困ったもんです。 まぁ今日は仕事がいろいろ資料作りが忙しかったので、それどころじゃなかったですが、でも午前中は眠かったなぁ。 明日以降も、この眠気との戦いは恐怖だ・・。 |
人生の心得
勝負のこころという本を読み終えました。
著者は大山康晴(倍達じゃないよ)。昭和を代表する名棋士で、引退後に名人位を18期勤めて15世永世名人となった人です(1992年死去)。 僕は将棋はテレビで見る程度で、知識は駒の動かし方を知ってるけれど、指したら7歳の甥っ子にも負けそうなくらいのヘボですが(笑) それでも大山康晴の名前は知っていました。今の羽生善治に匹敵する人ですよね。 もちろん棋士なので、将棋に関する話なんですが、全部仕事に置き換えて読むことができました。ここが読んでいて面白いところですね。 「過去の照り返しに生きるな」 「勝負は日常心にあり」 「山勘に頼るな」 これと同じような文章を書いたことのある人が確かいたなぁ・・・と思って思い出したのが、 野村の流儀です。 こっちの著者は野村克也。前・プロ野球の楽天監督です。 この二人は世代が似ている事もあるかも知れませんが、述べられていることが非常に近くて、仕事に限らず、生きる上での、迷ったとき、落ち込んだ時、アイデアが浮かばない時などに読むと「気づき」があっていいですね。 後者の本の中で好きな言葉は 「先入観は悪 固定概念は罪」 「未熟者にスランプはない」 という言葉です。いや、ほんと、勝負の世界に生きる人は厳しいです。 |
焦りは禁物・・・というものの
プロセス改善という仕事をやってるんですが、、、人に説明するとなると難しいんですよ(笑)
一昔前で言えば、合理化とかになるのかな。 ぼくの携わっているソフトウェア業界だと「○人月」という「考えた奴は誰だぁ!」と海原雄山(by美味しんぼ)ばりに切れたくなるような制度があります。 でもってこの世界では、5人で3ヶ月かかる仕事は5×3で15人月、なんて計算をするわけで、 じゃぁ15人がかりでやったら1ヶ月で終わるんか!みたいなツッコミが20年くらいずーっとされていたりするんですよね(笑) その中に「個人のモチベーション」っていうのは計算に入っているのかな?とか思ったりするわけです。 僕が社会人になってからは、今の会社しかわからないのですが、どうもリワークにいて、そこで取り組んでいた人達の方が、元気だった気がする。 もっとも、自分自身のリワークの訓練と会社ってのは全然違うので、単純比較はできないのですが、リワークで自分が作ってきた「熱気」との落差、ここでしばらくは苦労することになりそうです。 リワークで半ばムードメーカーをやってきた反面、職場でそれができないと、自分の気分として挫折するかも(苦笑) いや、その熱気を自分で作らないといけないんだな、とか思ったり。 それとも、焦っているのかな? |
うつにまつわるエトセトラ番外編 ~うつと「岡田斗司夫ひとり夜話」~ その5
長々書いてきましたが、これで最後です~。
以下のvoi.6(大阪、2/13)、voi.7(大阪、3/20)のお話は、おまけ的なお話になります。 ノート術の話で関心を持って他に得たものとしては、まずは「無理矢理でもやる」ということ。 継続は力ではないですが、続けることが大切です。 ただ、続けることが大切というのは、しんどくても続けるということではありません。しんどくなると、レベルを落として続ける、ということが大事かなと思います。毎日2ページを書く、と言っても、毎日毎日2ページアイデアが浮かぶわけでもないですが、書いてみようと努力することが大事、また、書けなくても、1行でも一言でも良いので、書くことが大切、そう思います。 うつ期における日記やメモも、本当の低迷期はともかく、少し元気な状態から、復帰に向けて浮上する時期においては、やはり「継続」というのを意識する方がいいと思います。 継続と言っても、先を見るというよりも、1日1日を愚直に生きていけば、気がついたら1ヶ月経っていた、という感覚ですね。 ついでこの時にも出てくるキーワードは、再びになりますが「共感」です。 このvol.6の時は、岡田さんは、今までのノート術の話で展開されてきたことをさらに一歩進めて「論理的な展開というのは、自分にとって論理的であればよく、世間から見て論理的である必要はない」というオレ理論でよいという風に言い切っています。 何かを主張する時には、自分にとっての「正しさ」を主張するというスタンス。これは正しいのではないかと思いますす。もちろん自分の「正しさ」と相手の「正しさ」が相反する存在であれば、議論になることもあります。 しかしながら(もっともここから先は、岡田さんのようなクリエイターの理屈なんですが)そもそも、何かを表現するという行為は、他人から見て「狂っている」「矛盾している」というポイントを追究し「人から見てずれている自分」の部分、そこを強く押し出すことにより、世界における自分の役割を定着させる、すなわち本当の意味でのオンリーワンの道が生まれてくることになります。これが自分が社会に存在する意義を意味することになるのではないか、と思います。 さらにそれを推し進めて、少し自分の中で安定してきたら、利己的な目標+社会的に(ちょっと)良いことをやって、社会に還元する・・・もっとも、この部分は、うつがどうこうというよりも、西洋のノーブレス・オブ・リュージュ的な考え方も入ってくるかも知れません。 これは健康になって仕事を全うできるようになったら考えることかなぁ。。。 この話を聞いていた頃の僕の状態というのは、だいたい普段の生活も安定していたというか、時折復職センターに出所できないときもありましたが、でも時々考え事をしても停滞したり、グルグル思考が回ってみたり、という感じでした。 そんな感じで、最後のvol.7を迎えることになります。 vol.7のひとり夜話では、壮大な社会実験として「会社を作る」という話になります。 (もっと言えば、岡田さんは「世界征服を目指す」と言っています)この「会社」の内容や概念は、今まで普通の経済社会における「会社」という概念(労働を行い、対価として給与その他の報酬を得る)からは大きく異なる団体になりますので、簡単に説明をするのは難しいです。 (興味がおありのかたはオタキングexなんかご覧ください・・です) この話は僕のうつ話のメインにならないので、ここはちょっと端折ります。 なので必要な範囲で説明をしますと、今の時代というのは社会の大きな変革期にある、という話がここで出てきます。 歴史にならうなら、 ・狩猟民族が農耕を覚えた時(第1の波) ・科学が発展を開始しはじめる19世紀の産業革命の時代(第2の波) それらに続いて、今の時代は、科学万能の時代が終焉を迎え、コンピュータやネットワークの発達によって始まる情報革命の時代、すなわち「第3の波」という時代にある、と指摘します。(元ネタはアルビン・トフラーの「第3の波」です) 「第3の波」の時代になる少し前の、科学の終焉の時代についての話になります。 (第1の波の話・・とかちょっとメモするの忘れた)第2の波の時代、すなわち産業革命のスタートによる科学の時代になって、子供への教育が変わった、という話がここで出てきます。どういうことか?というと、昔の農業の時代であれば、子供の教育と言っても、農業生産できる子供がいればよかったので、自宅で親が生活に必要な知識を教えていれば良かったわけですが、産業革命の時代になると、子供への教育が変わってきます。 産業革命、すなわち工業化された社会になると、農民時代と異なり、大人は工場に出勤して仕事をしないといけないので、子供に教育を施す時間がなくなり、また、その子供も、農民時代と異なり、工業化社会に適した「工員」を生み出すための教育になります。日本で言えば、明治時代の富国強兵や義務教育的なものができた時代を当てはめるといいと思います。 この時代の教育の目的というのは「一定の能力をきっちりと継続的に発揮できる人材を作ること」でした。 工員ですからね。 その後、第二次大戦が終わると、ここで世界の潮流が、富国強兵から経済戦争の時代に移ります。 端的に言えば「儲けたモノ勝ち」ですね。 そういう時代になってくると、求められる人材というのは、上の「工員」から「儲けるのが上手い人」に変わってきます。日本が戦後経済成長できたのも、そこに長けていた、かも知れません。 しかし、今のようにリーマンショックのような事件や、日本のバブル後を見ると、どうも経済成長という考え方も、頭打ちに見えつつある。 そこへもって来てコンピュータの発達やネットの発展による、情報革命という波が起きつつある。 情報革命といえば、まさに今ここでブログを書いていること自体が、十分革命的と言えるでしょう。 昔は自分の意見や、文学作品を発表するとしても、出版のルートを持っていないと駄目でしたが、今はWebで簡単に作品を発表できますし、逆に読者も読むことができます。(昔も意欲的な人たちは、同人誌なんてものを作って活動していましたが……) 経済が頭打ち感があって、不景気から脱出できそうにもない、就職も大変、というのは、複合的要素もありますが、経済社会の終焉というのがあるのではないか? じゃぁ今後どうなるのか?これが社会全体でなんとなく抱えている不安なのでは? それが、今を幕末の時代に喩えて、たとえば江戸から明治に移行するとき、徳川幕府の人間は昨日までは正義だったのが、維新後に悪にされてしまう、そういう価値観の変化がくる時代はもう来つつあるのではないか?という話でした。 そこから先に、これからは評価主義の時代だ!会社を作るぜ!という話が出てくるんですが、そこは横においといて(笑) ---- ここからは僕自身のうつに関係する話をします。 そういう経済戦争の時代、そこには、科学の力を信じていた人たち、科学万能主義みたいな風潮があったと思います。 1970年は大阪万博は、その絶頂期を示す象徴だったと思います。 ひとり夜話vol.7の中でも、科学万能主義を夢見ていた人たちの時代(今から40年くらい前の時代でしょうか?)の夢が破れ去ったことを象徴する話が行われます。 この辺りは、SF好きの岡田さんの真骨頂と言えましょうか。 大昔、SF好きだった人は、SFの時代は、完全なフィクションではなかったはず。未来の乗り物も、ロボットも。そういうものがまだ信じられていた時代だと、科学というものが発達すると、人間の暮らしは便利になると信じられてた。 しかし実際どうなったかと言うと、しんどくなったことが多いのではないか? 僕自身も鉄道好きの観点で思うことですが、大昔、東京~大阪間を蒸気機関車で10時間くらいかかっていたのが、新幹線で3時間弱で移動できるようになると、昔は泊まり出張だったのが、今は日帰り出張になっただけで、全然楽になってません。 むしろ今は、新幹線の中にコンセントやネットまでくっつけて、移動中まで仕事をやらせようという有様です。 もう一つ余談ですが、ホンダの二足歩行するロボット「ASIMO」を見たとき、これがもっと機能があがって月20万でレンタルできるような値段になったら、多くの人は仕事なくなるんじゃなかろうか?そんなことを思います。 これが果たして人間にとっての進歩と言えるのかどうか?少なくとも、幸せなのかどうか? 技術職なんてやってますが、技術の進歩の行く末にあるものは一体なんなんだろうか? 自分自身は理工学系の学生だったにも関わらず、どうにもこうにもこの疑問だけは解けずにいます。 というよりも、小中学生の頃にコンピュータの世界に入ったころから、大学生になる頃までに「なんとなくぼんやりとした不安」というものが、自分の頭の中に浮かんではいたのかも知れません。それがネットの発達や、社会に出て、実社会での経験を経たところで、どんどん確信に近くなっていく恐怖、みたいなことを考えているのかも知れません。 その上で(僕のうつは環境など成長過程に拠るところもあるのですが)普通に仕事をしていて、ストレスを感じてしまうという人がいるならば、上に書いたように「社会の変革(経済主義の時代・科学万能の時代→情報革命の時代)の時代の犠牲者、あるいは、どうもこのままではやばいのでは?と敏感に気づいている人」ではないか?というのが僕の仮説です。(岡田斗司夫理論でいう「俺に言わせれば」という極論です(笑)) もちろんそう決めつけてしまって、思考停止して「社会が悪い!」と言って責任転嫁してしまったら、ただのだだっ子なのですが、いわゆる「ストレス社会」の原因を求めてしまうと、結果そうなってしまうのが僕の持論です。 では、大切なのは、どう変えるか? 卑近なレベルでは、まだまだ今まで通りの経済主義の社会がつきまとうでしょうけれど、10年先になると、どんな社会になっているかなんて僕は想像はつきません。 ですが受け身ではなく、積極的にモノを考えた方が面白いのかな、と思うわけです。 そのためのヒントは、まだまだこれからいろんな形で出てくるのかも知れませんし、本当に「FREE」の唱えるフリーミアムの社会が実現してしまうかも知れません。 フリーミアム社会で大切になってくるのは「お金で商品を買う」という時代よりは 「それ作ったら面白そうだから、オレも制作に参加する」というボランティアに近い形や、あるいは 「使ってみて面白かったから、お金払う」というファン精神的な「買い支える」形に近いもので、そこに必要になってくるのは、結局一番最初の話に出てくる「共感できるか?」というキーワードなんじゃないかなぁ、と。 ……と、話が大きくなってしまいましたが、自分が感じている「うつ的なモノ」というのは、そういう変革期に見られる苦悩じゃないかな?と考えると、この病気にも意味があるのだという捉え方もできてきます。 というか、そうでも思わないとやってられません(笑) 「ひとり夜話 vol.7」の中での岡田さんも、変革期には多少の犠牲者が出る、ということを述べています。大げさに言えば、幕末の変革期に日本も大混乱に陥ってますが、そんな状態かも知れません。目に見えて秩序が保たれているだけで。 もっと言えば、それが今は個々人の問題にされているだけだ、なんて言ってみたりして。 ---- おまけ 岡田さんが話の中で述べていたのですが、 「就活だと、上位3%程度が好きなところに就職し、80%が苦労をし、残りは就職すら認められない」 「恋愛だと、上位3%程度が死ぬほどモテる、80%が非モテ、残りは恋愛すら拒否」 そんな時代よりは 「希望する人の60~70%が、ほぼ幸福になる社会」 が岡田理論の「健全な社会」らしいです。 (ベンサムの「最大多数の最大幸福」の発想に近いのかな?) 今の社会って、健全とは思えないなぁ・・・と思う人がいたら、ぜひ参考にいただきたいところです。 |
うつにまつわるエトセトラ番外編 ~うつと「岡田斗司夫ひとり夜話」~ その4
少し間が開きましたが、続き。
僕が参加した4回目になるのは、年があけて2010年になってすぐの1/9大阪のvol.5。 話の導入では、面白いブログの書き方、みたいなお話でした。 「自分の持ちパターン」を早く作る、という感じのお話で、まぁ病気のこととは別に、このブログの話というのは、表現という点で参考になりました。 病気であろうがなかろうが、ブログというのは基本的に感情の発露なので、上手く書こう、とか、綺麗にまとめよう、とか、小賢しいことを考える以前に、自分の語りたい事、感情をどう持ち込むか、という視点が大事ですよね。 昔、政治ネタブログをやっていた頃のことから思うことですが、正論だけなら少し考えれば吐ける。でも、それだけじゃ読み手は面白くないわけで、面白くするなら、その中に自分だけの拘りのある偏り・無茶な意見をあえて入れることも大事だと思うわけです。その「偏り」という状態を恐れてはいけない。むしろその偏りこそ、真の意味での「個性」として残るというわけです。 まぁこの辺りはブログの話ですけれど、フレームを拡大して考えると、人生そのものにも適用できますね。他人に迷惑をかけないのなら、自分の「偏り」というのは「個性」と言う言い方もできます。 案外この個性というのもやっかいなもので、自分は面白いと思っていなかったり、しょーもなと思っていることが、他人には個性的に写ったり、希有な才能に見えるという場合もありますので、まずはアウトプットをしてみて、他の人に意見をもらうというのは大切かも知れません。 そうそう、で、そのフレームという言葉についても述べてみます。 フレームというのは、写真のフレームや、カメラのフレームワークなんて言葉でも使われるように、日本語で言えば「枠」ですね。 物を考えるという場合においては、フレームというのは、思考の枠、すなわち、物を考えるときの思考の枠組み、物の捉え方という言い方もできると思います。 「ひとり夜話」の中では、このフレームの話について、映画のシーンをモチーフに紹介していました。 たとえば、映画の一シーンがあったとして、そのフレームを小さくしていけば、そこに写っている人や物があり、さらに小さくしていけば、出ている俳優の表情や服、さらには服の柄や素材・・・という感じで、同じ場面でも細かく拘りを持ってみていくことができる。逆に、映画の一シーンから、フレームを大きく取れば、セットがあり、カメラやマイクなどの機材がある。もっと大きく取れば、それをカメラマンの他にスタッフがおり、指示を出す監督がおり、技術や技術のスタッフがいる。もっともっと大きな目で見れば、その映画のスポンサーをしている人たちをも想像できる。 こういう風に、一つの事象について、フレームを大きくしたり小さくしたりして見る、ということができます。 映画の話だけではないですが、普通の人生における一場面でも使えますし、いくらでも応用の利く話です。 再びうつの話に戻りますが、僕自身の経験で言えば、このフレームの拡大・縮小の話は「自分の視野」という言葉で置き換えて考えてみました。 するとわかるのは、自分の心の調子が良くないときは、このフレーム(視野)が完全に固定されてしまいます(小さくなってしまう、というわけではない)。柔軟性を失うんですね。たとえば、仕事で苦しくなってもう駄目だ、という時には、仕事やめないと、みたいなフレームで固定されてしまう。柔軟に考えるならば、フレームを小さく考えれば、仕事を細分化してできることからやっていくとか、フレームを大きく考えるならば、人生に仕事はそれしかないわけじゃない、などいろいろ考えられるはずですが、それができなくなってしまう。まさに「固定化されてしまう」という状態になります。 ということは、逆に考えると、フレームの可動域が大きいか小さいか、というのは、僕に取っては体調や気分の良・悪とリンクしているということになります。 一つの物事の見方として、自分の中で思考実験をして、アイデアが良い物・くだらない物がいろいろ数多く出てくる時というのは、そういうフレームの可動域が大きい時で、すなわち体調が良いとき、逆にあんまり思い浮かばない時は、体調が悪いとき、ということです。 そんなに難しいことじゃなくても「精神的に追い込まれると視野が狭くなる」という状態は、うつ病になると経験することが多いと思いますが、この「フレームを大きくしたり小さくしたりできるか?」というのは、自分の気分をはかるのにはとてもいいのでないかと思います。普段から自分自身で認知療法をやっておくようなものですね。 上の話の応用ですが、頭の引き出しというのも同じようなことが言えると思うんですね。 多くの人が、自分の過去の経験談などを記憶している「頭の引き出し」を持っている、と思うんですが、どうしても心が冴えない、頭が冴えない時は、この「頭の引き出し」が錆び付いているのではないか?と思います。 頭の引き出しというのは、しょっちゅう出し入れをする、すなわち、他人と話したり、他人から聞いたり、あるいは思い出したりすることで「頭の引き出し」というのは動くようになっていくと思うので、この引き出しについては、動かせば動かすほど、使える引き出しは増えると思いますので、そういう意味でも、会話やコミュニケーションはとても大事なことなのかも知れません。 次が最後ね。 |