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さくらのみや日記

さくらと日本と鉄道好きな、野良プログラマのブログ。

日常と非日常の合間

今のコロナ禍の時期というのは、はてさて非日常なのか。

自分は今40代半ばで、言ってしまえば氷河期ロスジェネジャスト世代だったりします。
高校生くらいまでは、バブルとかなってたけれど、大学入試のときには試験活動の最中に阪神大震災。大阪在住の自分も、家は無事でしたけど、多少は影響は受けました。
(新幹線で1時間で行ける岡山の大学に、在来線で4時間かけて下見に行ったり)
そして入学の直前にはオウム真理教の地下鉄サリン事件。
ネットが今みたいにない時代ですけど、大学にあったUNIX室では、その頃ちらほら話題になりだしたインターネットが見られたので、サリン事件なんてニュースを見てました。

そして4年たち就職活動するころにはバブルは弾ける。有名な山一證券の破綻を筆頭に、苦労したほうです。
それでも、理系の、しかも研究室の指導が厳しいこともあってか、秋頃には全員決まっていた気がします。私も4年の5月頃には内定をもらっていました。

ただ、仕事に行っても、今度は会社が大変だったというか。入社した年には、グループ全体で5000億の減収減益、2年目は正真正銘の7000億の赤字でした。
「V字」回復やるぞーとスローガンの一方で、現場では「L字」になってまうんちゃうか、とか言ってたものです。

それでも10年ほど経って、リーマンショックにつづいて止めは東北の震災。そのあとリストラもあって、30歳半ばで私も放浪プログラマが始まるわけですが。。。

まぁ、こんな社会との関わりを持ち方をしてしまったら、日常なんて何の意味があるんだろうか?と考えますよね。今は非日常?なんで?こんな人生(とは言っても、私はまだ幸せな方だと思いますが)だと、人生と社会と生命の不安定さなんて、こんなもんじゃないの?と思ったりするんです。

コロナ禍はいつか収束し、やがて「日常」が世間を支配し、多少はシン・ゴジラのラストの如く、爪痕を残し、それと生きる生活が戻ってくる。でも、板子一枚下は地獄。。。

それは「日常」なのかも知れないが、その日常というのは「作られた虚構」にしか感じられないことがあり、それが自分の「違うんじゃないかな・・?」という違和感が、再び自分を鬱の世界に導いていくような、そんな気がしてならないんです。よう知らんけど(台無し


蝿の王

在宅ワークのため通勤しなくて良い分、余暇時間が少しあるから・・というわけでもないですが。
タイトルだけは知っていた「蝿の王」を読みました。一気読み。

さすがに書かれた時代が古いので(1954年)、内容は言われるほどの過激さは(今となっては)体感として感じないのですが、それでも一気に読んでしまうほどには面白い。
(ここでいう「古さ」というのは、今、手塚治虫を読んでも目新しさはないが・・というような意味合いで)

今みたいに、非日常のときに読むにはオススメ。
人間なんて、日常は人間らしくできても、極限状態になるとどうなることやら。

コロナ禍でマスク買い占めしたりしているのを見ていると、あんまり変わらないと思うなぁ。
大人も子供も。


一応元気しております...

なかなか書けてなくてすみません....無事、仕事の活動をできているので、書いてないだけです。
ちょっと落ち着きつつあるので、少しずつでも、思うこと、書いてみます。

しかし、少し前は、いわゆる躁状態でしたので、却って危険でした。うつの時期も辛いけれど、躁の時期も辛いものだったりします。


このタイミングでまさかの提案があったら・・・?

韓国からのGSOMIAの破棄というニュースが流れていますが・・・一体この問題は、どこに落とし所があるんでしょうか・・。
別に韓国の顔色をみて、そろそろ日本から手打ちに行ったほうが、なんてことは、私の今までの、いわゆる「怒韓」「諦韓」「楽韓」の歴史からして(この件に限らず、発端となったレーダー照査や徴用工どころか、竹島プロジェクトなんてものまでやってたんですから)またやっとるやっとる、くらいにしか感じていないのですが。
それでも、落とし所の見えない争いの怖いところは、こちらがビビることなどではなくて。

常識的にそれはやらんやろ、ってのが、特に日本人の社会の間ではありますよね。ときにそれは義理と呼ばれるものであったり、常識と呼ばれるものであったり、忖度と呼ばれるものであったり。

ただ、今回の一件は、常識的にそれはないわな、という日本人の感覚で、ものを考えていてはいけない、という分岐点になるのではないかと感じています。

その点で、常識たらんと振る舞いたい人や、想像力の枷がある人は、その「今までの常識」が壊される恐怖から「韓国とはそろそろ仲良くしないと」という発言に繋がるのではないかと感じています。

正直、ほんと、一寸は先は闇ですね。

知人と酒飲み話を少し前にしていたのですが、いやぁ冗談抜きでここは一戦交えるしかないのか?と話をしていました。そこまでみんな覚悟はあるのかな・・。まぁ、そうなるシナリオってのは、頭の片隅においておいてもいいと思うんですが。

と、その酒席の場で、不意に「今このタイミングで、北朝鮮が拉致被害者を返す」という提案をしてきたら、どうなるんやろ?とネタをふってみたのですが・・・このシナリオはないかなぁ・・・。でも、北朝鮮のブレーンだったら、このシナリオの検討くらいはしたんじゃないかな?と思っているんですけどね。



うつではないけれど

むう。今朝は朝から気分悪いことが多かったですね。
体調管理は大事だ・・・。

仕事行く前に、そういう吐き気をもよおしてしまって、危うく休みそうになってしまったのですが・・。
今は立場的にも、なかなか簡単に仕事を休むというわけにもいかず。

自分としては物事を悲観的に考えるタチなのですが、その悲観論的なところを
「仕事に行くしんどさ」ではなくて
「仕事を休んでしまった場合に生じるデメリット」に結びつけることで、なんていうか、競走馬のブリンカーのように走っている感じですね。
あんまりいい精神状態じゃないなぁ。。。
自分だけがそうなのか、みんなそうなのか。果たしてよくわからなくなることがあります。


英霊か、犬死か。

しばらくネタ書いていませんでした。サボっていたというよりも、お盆休みでだらけていた、という感じです。すみません。

終戦の日の前後のtwitterで見ていたのですが、戦争で散華し、靖国神社に祀られている戦死者は、英霊なんかではなく、犬死しただけの存在だ、というような意見を見ました。
つまり、今風にいえば、大日本帝国というブラック企業の社畜として死んでいった兵士たちや、戦うこともなく死んでいった兵士たちを指して、英霊だと祀るのはおかしい、という調子で。

確かに、戦争で死んでいった人たち一人ひとりの心情を慮ることは難しいので、それを一緒くたに「英霊」と祀るのも、どこか無理があることかもしれません。
私自身には、身内には、幸運にも戦争で命を落とした親類はいないのですが、幼少の頃近所にいた、私の父と同世代の人は、実父を戦場で亡くしており、戦後に遺族として銀杯を賜っているのですが「こんなんで誤魔化されてもなぁ・・」とおっしゃっていたのを覚えています。
こういう風な実体験に基づくものからくる意見には、英霊だとか犬死にだとか、議論するものではないと思いますし、他人がとやかく感じることではないと思います。

そういう卑近な例ではなく、歴史として感じるとしたらどうなるのか。
これは、正直なところ、歴史の悲劇に散華された方々を、英霊にするか犬死した兵士にするかは、後世の人間の仕事の一つだと思うのですね。
日本の歴史の流れの中に生きているという意味では、今生きている私もですし、先の戦争で散華された方々、それ以前の歴史も含めて、自分の身体の一部に、日本の歴史と関わりがある、というふうに感じています。なので、過去、それぞれの人々が自分の信念のもとに殉じたことに関して、私は、そういう形で、あれは犬死だ無駄死にだ、と「断罪」することはできないのです。

この断罪をする立場というのは、私の感覚なのですが、過去の歴史を、自分は違う高みから俯瞰して語っていること、そう感じる辺りが受けいられないところなんでしょうね。
確かに、先の戦争の是々非々を論じる、客観的な目というのは必要です。でもそういう学術的な論点と、慰霊の問題、日本国民としての受け止め方、それらを混同するのは歴史に対する冒涜だと感じてしまいます。

もう少しいえば、その時代ごとに対して、信念を持って生きた人たちを、別の時代の人間が軽々しくジャッジするものなんだろうか、という感じもします。極端な例でいえば、自動車社会に生きる自分たちが、馬車しか存在しない時代を「なんでそんな効率の悪いもの乗ってるの?」と笑うようなものでしょうか。。。

そもそも、自分たちも、歴史の一部に生きている、という自覚があれば、自分たちもまた、未来の誰かに評価されるときが来るわけです。「失われた20年」なんて今でも言われていますが、100年先にはどう評価されるのか。今でこそ、戦争をせずにやれてこれた平成の30年を、良かった時代と感じていても、未来にはどう評価されるかわからない。「北朝鮮のミサイルに何一つできない腰抜けの世代」と言われるかもしれない。
今の時代が、そんなにも褒められたものなのかどうかは、後世になってみないとわからない。

未来の視点から、過去の過ちを断罪するのは、簡単ですが、それは試験問題を必死に解いている学生を、答案用紙を見ながらあざ笑う姿勢に等しい。
また、その態度、しっぺ返しは、将来、自分たちも「断罪」の立場に立たされることを覚悟していない人間でなければ、やってはいけないことだと考えてしまうのです。


哲学の先にあるもの

鬱と関連があるのかどうか、自分は最近は(というか10年以上は)哲学書だったり、そういうものに惹かれて読んでいるところがありました。
でも、もうそろそろいいかな(笑)

と言っても、いろんな本を読んだ末に、ここに自分の求めるものはない!というような悟りのような境地に至ったわけではありません。
必要があったり、興味がわけば、また手を伸ばすことになるでしょうし、もう哲学というものが終わった、ということになるわけではないですし。人の営みが続く限り、哲学や宗教というメタ学問は続くことでしょう。
ただ、自分はついていくのに疲れてきた、というところかも(笑)
自分はそれで飯を食っているわけではないので、いつでも止められる、いつでも始められるというのはありがたいですね。

どうも色々読んでいくうちに、自分の中で抽象化されてきた中で(自分の感覚だけでいうならば)
・歴史的に、①ある体系をビルドする時期、②①でつくったものを脱して再構築のためにバラす時期
というのがあるような気がしています。それらは、どの理論が今そのフェーズなのか?となるとうまく掴みきれていないですし。

ただ、面白いことに、文章というのは、解釈にゆらぎのようなものがあって、そういう「遊び」があるがために発展できる余地があるわけですよね。数学だと1+1はどうやっても2ですけれど(もっとも数学も発展した先には色々議論する場所があったりするんですが、それはそれとして)

哲学の書物を読み続けて、一つ、自分の中の考えの踏み台として、一つ固まったのは「考えるのを止めるな」ということでしょうか。
哲学の真髄、悟りのような、一つの答えはそこにたどり着いたように感じます。ただ、そこにたどり着くまでが長かったかなぁ(苦笑)


広島原爆忌に思うこと

8月6日、ということで、やはり書いておかないといけない心境になりますね。
戦争のこと、原爆のこと。

先日NHKで放映された「この世界の片隅に」は、映画館では見ていなかったので、今回初めて見ました。
戦争映画を題材とした映画としては、今まで見てきた中では、明るいタッチで話が進み、そして、明るいタッチで進むが故に、真綿で首が締め付けられ、晴美ちゃんの件があり、そして最後の原爆のシーンと、印象的でした。

特に原爆のシーンはびっくりしました。ああいう表現の仕方があるのだ、ということ。
そして、日本人は、ああいう表現ですべてを理解できてしまうという歴史を背負ってしまっていること、さらに言えば、背負わされていることを、改めて感じました。

原爆については、過去に色々、いろんな場所で書いています。
戦争そのものについては、戦争だから(戦争がいいとは思わないが、戦争とはそういうものだから)人の命を奪うことの是々非々を、今の時代の感覚で語ることは、正しいのか?と思いはあります。

でも原爆は違う。

自分の個人的な思いで言えば、原爆ドームは見ているとムカムカしますし、アメリカのロジックで戦争の早期終結に役立った、という風に本気で思っているのなら、原爆ドームはニューヨークの国連前に飾っておけよ、と言ってきたこともありますし、今でも本気でそう思っています。
というか、その屁理屈がムカつく。核兵器が戦争の早期集結に有効だったのなら、朝鮮戦争でもベトナムでも、湾岸戦争でも使えば良かったんです。でも長崎の原爆投下を最後に世界で実戦では使われていないのは、暗に「やりすぎた」って認めているということだと思うんですね。
それをいつまでも、あの屁理屈で通そうとする。これについては納得できないところですし、譲歩もできないところです。

その一方で、もし日本があの戦争のさなか、核兵器を先に開発をしていたら。そう思うこともあります。

ま、言っても詮無いところでもありますが。
戦争に、そして核兵器の問題に、正面から向き合おうとしないのは、一体誰なんだろうか。
自分も含まれているのだろうか?

時折、そんなことを考えたりもします。


表現の不自由展

なんか、語ったら負けみたいになってしまいました。「表現の不自由展」騒動。
色々語られているのを、聞くと、相変わらずな「俺が天に唾するを許すとも、天が俺に唾するを許さじ」って感じですね。

なんか、いろいろ吹き上がっているけれど、語る気にならんなぁ。。。もう。あまりにレベル低くて。


はじめて学ぶ 中国思想 読みました

毎日5行でもいいので、なにか書こうと思っているんです。継続してみるのが大切かなぁと思いまして。
ネタがないときは苦労もするでしょうけど(苦笑)

で、今日は書評など



正直、タイトルに「はじめて学ぶ」なんて書いてあるんですけれど、初めて学ぶにしてはガチすぎませんか、これ(笑)
それとも、私の中国の思想史の知識なんて、初めて学ぶ以下だったということなんでしょう。

思想史と考えると、正直なところめちゃくちゃお得な本だと思います。割合、西洋の思想書、哲学書の類ですと、ソクラテス・プラトン辺りから始まって、転換期となるデカルト、そしてカント辺りから始まる近代哲学と、一貫して読む書物は結構出回っていると思います。
一方で、中国の思想史となると、たしかに単発ものだと多いんですよ。論語辺りから始まって老荘・諸子百家の時代、それから宋代になっての朱子学・陽明学と。
でも、それを一貫して学ぶとなると、なかなか難しかったりしますね。
例えば、朱子学が論語(儒学)からどう影響を受けて後継者として成り立っているのか、陽明学の位置付けは?とか。
そもそも論語が現れる春秋時代から、朱子学の宋代まで、1000年ほどの時間差がありますが、その間の中国の思想史ってどうなってんの?という問題があります。

論語や老荘といった、一つ一つの書籍を縦糸とするなら、これはまさに横糸に存在する書籍。これ一冊でもちろん中国思想史を全部語るのは難しいですが、手引書としては、かなりお得と言えます。
正直、初めて学ぶ、と言いながら、かなりマニアックです。章立てされている人名でも、初見の人も多いですし、その合間にコラムとして紹介される人も、殆どと言ってもいいくらいわかりません(泣)

そういう人物の奥深さは別にして、中国の思想史の面白さみたいなのは、自分が読んだ感想としては、意外なところにありました。
それは、漢字の表現の奥深さです。
西洋の思想や、もっといえば特にキリスト教などでも、例えば聖書の一節をどう解釈するか?というので、時代時代で都合よく解釈したりすることがありますが、表意文字である漢字文化の中国では、それが顕著にみられる気がします。

たとえば、中国史のなかで「理」というのをどう解釈するか、というのは、一つのテーマになっているのですが(自分の中途半端な解釈で申し訳ないですが、理と気は別にわかているとするのが朱子学で、んなわけないやろ、と言ってるのが陽明学、というような)こういうのが随所に出てくるんですね。
まぁ、だから「白馬非馬」の公孫龍みたいなが出てきたりもするのですが、こういう、ある意味、漢字をその場面、時代に応じて解釈を変えることによって、その時代のトレンドを作るというのは、良くも悪くも頭いいなぁという印象もしました。

いや、これ、日本人も時々やりますよね。「自衛隊は隊だから、軍じゃない」みたいな(ちょっとこれは無理がありますな)

あとびっくりなのは、中国の思想史って、結構古くから、特に西洋とくらべて、早い時期からメタ学問、形而上学に取り組んでいるんですよね(なんとなくですが、老荘ってそんな印象ですよね。上善如水だとか、<道>の考え方だとか)

ほんと、自分の全然知らない歴史が身近な国にあって、特に朱子学・陽明学は、日本の武家社会・明治維新にも影響を残していたりもしますので、立ち読みでもいいので、とてもおすすめの一冊です。


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プロフィール


佐倉純

Author:佐倉純
日本と桜の花と寝台特急「さくら」をこよなく愛する、そして最近カメラに目覚めたのんきなプログラマ。
日本の事を憂いてみたり、日々思ったことをまとめて、綴ったりしています。その合間に写真も撮っています。
時々子供のネタなんかも。

ぜひゆっくりご覧ください。


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